虚勢の銀貨

東村の日々の記録

それは夢のようにまるで嘘のように

 ご無沙汰しております。

 先週、実家に帰っておりました。仕事の出張で、というのもあるんですが、実家で飼っていた猫が虹の橋を渡ったので。

 16年連れ添った家族でした。ここ数年は実家にあまり帰れていませんでしたが、確かに家族で、いて当たり前になっていました。元気に走り回るよりも、日向やこたつでいつも微睡んでいるような子で、三匹いたうちの猫の中で一番早く来た子です。

 元々、俗にいうデブ猫だったんですが、私が実家を出てしばらくしてから段々と痩せていきました。いたずらっ子ではなかったですが、女帝のように悠々自適にしていたと思います。

 私らが構っても嫌がることなく、「気は済んだか?」みたいな顔してすましていました。名前を呼べば返事をして、チュールが大好きでした。猫の寿命は一般的には12-18年、16歳というのは大往生の部類かと思います。

 

 火曜日の夜にその子が天寿を全うした、と聞いて翌日の飛行機で実家に帰りました。母は既に手配を済ませていて、水曜に火葬にしました。最後に一目会いに行きました。

 私が到着したときには、既に体は冷たくなっていて、眼窩は少し落ちくぼみ、肉が突っ張って歯茎が見えていました。それでも、毛皮の感触はいつも通り、生きているときと変わらずに柔らかいんです。痩せて骨ばって、肉が少なくなっていても、手から伝わる感触はあの時のままでした。

 何度も名前を呼びました。いつもなら尻尾や耳を動かすか、小さな声で返事をしてくれていました。でも、何度呼んでも声を返してくれることはありませんでした。冷たい体は、私にそこにある事実しか教えてくれませんでした。

 今になれば、どうしてもう少し機会を持って帰らなかったのか、帰っても友人と予定を入れるばかりで、相手をしてあげられなかったのか、後悔しかありません。過ぎた後なら何とでも言えることではありますが、もっと一緒にいられたのではないか、そんなことばかりが頭の中を回っています。

 

火葬はバンの後ろに炉を載せたペット葬用のもので行ってもらいました。茶色と白と、オレンジがかった毛皮のあの子を、母が台に寝かせました。次にその扉が開くときはもうこの毛皮ななくなって、白い灰に変わってしまいます。最後に体を撫でて手を合わせて、見送りました。

寒空の下、炉の熱気で空気は歪んでいました。あの子の体も、その陽炎に混ざって天に無事に還れたでしょうか。私が死んだとき、三途の川のほとりで一声だけでもかけてくれるでしょうか。

 駄目だ、PCに向かって打っているだけで泣きそうになるので、この子の話はここまでで。

 

 つつがなく、あの子の体は還りました。私と母と、来てくれた伯母で骨を拾いました。体の小さい子でしたから、立派な骨はあまりありませんでした。顎や腕、背骨の輪郭が分かるくらいで、他の部分は火の勢いに押されて砕けてしまったり、場所が移ったりして、どこの骨かわかりませんでした。

お骨は粉にしてもらって、小さな小さな骨壺に収めてもらいました。その一部の遺灰を、カプセル型のケースに入れて私が受け取ることになりました。でも、実家から神戸に帰るときに、持って帰ってこられませんでした。勇気がなかったんです。あの子の一部を、亡くなってから受け取ったとして、私に何ができるでしょうか。16年間、一緒に生きた家族の遺灰だけ受け取って、私にその資格があるのでしょうか。母には、「荷物がごちゃついてるから」と言い訳して、往路と同じく自分の荷物だけで戻ってきました。腰抜けで度量の低いゴミ人間です。

年末年始の帰省では、しっかり一緒にこちら戻ってこようとは思いますが、土壇場でまた腰が引けないか心配です。

 

他にも、昔の友人に久方ぶりに会いました。記憶にある限りでは、頻繁に交流していた最後の方はほとんど喧嘩別れみたいになってしまい(私の無遠慮が原因なのですが)、顔を合わせても少しの間はぎくしゃくしてました。

私が神戸でつまらない生活をしている間、友人は友人で、色々ライフステージが変わったようで、時間が経ってしまえば何事も変わっていくのは世の常ですが、これまでみたいに、つるむことはできないんだな、と淋しくなりました。

まったくの私のエゴなんですが、友人にはある意味変わってほしくなかった、というのが本音です。そうされたところで、私には私のエゴを押し付けた責任を取ることはできないですし、そもそも友人のライフプランに口出しする権利なんて欠片もありません。そんなことは十二分にわかっているつもりなんですけど、やっぱり変わってしまうって辛いことですね。

 

ここ数年で一番激動の数日でした。以前の私なら、冷めた視線で生老病死を見つめられましたし、友人の変化も「そうなんだ、ええんちゃう」で突き放せていた気がします。

昔の私なら、もっと自分以外のことに冷たく、無感情に切り捨てられていたと思います。究極的には自分には関係ないし、て割り切って、独りで生きていく/死んでいく覚悟があったはずでした。

でも、やっぱり泥人形でも時間が経てば変わってしまうんですね。先の友人だけでなく、地元の友人らに数年ぶりに会うと「物腰が柔らかくなった」と評されます。実家にいた頃、と言いますか、大学時代は周りは全部敵だと思っていた節がありますから、当時つるんでいた友人らに無神経なことをして疎ましく思われることも少なくはなかったと思います。

社会に出たら変わってしまうものなんでしょうか。環境が変わったから私も変わってしまったんでしょうか。私と仲良くしてくれる人が変わってしまうのが嫌で、私も変わらないようにしていましたけど、気付かない部分で醜く歪んでいったようです。

弱くなった。そう思います。どうしようもなく、自分をコントロールできない自分が余計に嫌いになっていきます。やっぱり、無駄に長く生きてしまったんでしょうか。私が好きだった頃、私が私で完結できていた頃に終わるべきだった。

 

変化を許容できて割り切れる皆さん、それだけ強い心を持つ皆さん。

皆さんの人生が幸多からんことを祈ってます。

 

ゲヘナより哀を込めて。

恩知らず

 お久し振りです。最後の更新からほとんど一年経ってしまいました。

 近況報告するようなこともなく、毎日淡々と、時にイベントがある毎日を過ごしているわけではありません。

 そういえば、第十回ハヤカワSFコンテストに応募しました。なんとか結果に繋がってくれる信じてます。。。

 

 最近ね、本があまり読めないんです。時間が取れない、というわけではなく、文章を読んでも目が滑るっていえばいいんですかね、頭に入ってこないんです。

 前は、文章で描写される世界にどっぷり浸かって此方ではない彼方側の世界に思い焦がれたものでした。でも、最近は上滑りするばかりで、没入感が、前よりも得られなくなっています。そうなると、どうしても本から離れてしまって、益々文章にのめり込まなくなって、悪循環に入ってしまったようです。

 

 このところ、やはり私自身と世間とのずれをすごく感じます。やっぱり私って周りと違うんだな、世間に馴染めないんだなって。まあ所詮は人間様と同じ形をした泥人形ですから、そうなっていて当たり前なんですけどね、どうしてもそう思うことが増えました。

 周りと共通した考えを持てなかったり、周りが「面白い」って言うものの面白さが分からなかったり、これば別に小説に限ったことじゃないんです。前々からあったことです。

 

 周りの人やTwitterをはじめとするSNSで「OOは面白い」「XXはここがすごい」なんて評価と言いますかレビューと言いますか、そういうものっていっぱい流れてくるじゃないですか。

 基本的に天邪鬼ですので流行りものは嫌いなんですよね。流行の、ブレイクしたタレントは街中でポスターを見るだけでイライラしますし、某スケート選手がテレビに出たら番組を変えるか電源を落とします。〝流行っている〟って理由だけで追うのをやめてしまった作品も山ほどあります。

 ただ、やっぱり良くないよね、と思って、ここ数年は一度は触れてみようとはしています。流行っているって理由だけで切り捨てるのではなく、一度ちゃんと鑑賞して、そこでジャッジしよう、と考え方を改めました。(小説や漫画みたいな、作品に関してですけどね)

 

 それでも、生まれてこの方バカの一つ覚えみたいに天邪鬼で生きてきたので、多分矯正不可能なほど歪んでしまったんでしょうね。上記の、評判のいい作品を鑑賞しても、「どうしてこれが?」となってしまいます。

「アニメ化決定」「OO大賞受賞」「映画原作」「アマゾンレビュー4.8」評判を表すものはたくさんありますが、そうしたものに触れても、「なんでこれなんだ……?」となってしまいます。

 最近、フォロワーさんが続々をデビューしていきます。そうした方々の作品を読むと、やっぱり私とは違うな、敵わないな、と思うんですよね。先の話と合わせて、なんで彼ら彼女らが受賞するのか分からない、ってことじゃないですよ。素直にすごいと思いますし、尊敬します。

 きっと、私には、彼ら彼女らのような鑑定眼みたいな、世間へ投げかける価値観のような、自分の表すに足る何かがあるんでしょう。それが私にはないんでしょう。皆さん、きっとたくさん努力してきたんでしょう、私なんかよりもインプットもアウトプットも凄まじいんでしょう。

 

 今回、ハヤカワコンテストに出した作品を後輩に下読みしてもらった際に、「舞台がどこか分からない」と言われました。私、作中に散々〝サイゴン〟って出していたので、分かると思っていたんですよね。でも、後輩は分からなかったようです。その後輩は先日デビューが決まりましたから、多分後輩が正しくて私が間違っているんでしょう。

 

 こういう、自分と世間の細かい齟齬が積み重なって、重なり合って、やっぱり私は世間と上手くやっていけない泥人形なんだな、って思います。

 私が面白いと思った作品が評価されない、私がいいと思ったものが足蹴にされる、そんな世界って何の価値があるんですかね。どうせ私が作り上げても見向きもされないんです。どうせ私が発信しても評価されないんです。

 醜く肥大した自己顕示欲が服を着て歩いているようなものですから、そんなもの評価を受けなくて当たり前です。

 

 さてさて、愚痴っぽくなっちゃいましたね。周りの方々がどんどん結果を出しているので焦っているのかもしれません。まあ、今回の作品が何も結果を残せなかったら行く末は決まってますから、今更足掻きようもないですね。吉と出るか凶と出るか、始まるのか終わるのか、ひとまずは6月の一次発表まで待ってみます。

 皆さんはどんどん先へ走ってくださいね。下水道からルサンチマンの眼差しで睥睨しますから。

 

ゲヘナより愛を込めて。

泥より出でて泥に染まらず

 皆さん、ご無沙汰しております。


 長らく更新できておらず、すみません。
最後の更新から9か月あまり経っていますね……。昨年10月に最後の更新をしてからは、原稿のほうにかかりきりで、ほとんど他のことをする余裕がなかったです。その原稿については、2022年3月末締め切りのハヤカワへ応募します。今度こそは。

 

 さてさて、あのあといろいろあったわけですが、ここ最近やっと公私ともに時間が取れるようになって、本を読む時間も増やせつつあります。
Covid-19、未だに猛威を振るっていますね。早く収まってほしいものです。おかげで遠出や飲み会もはばかられる状況で、家にこもる時間も増えて、本に手を伸ばせる時間も増えました。
 ただ、どうなんでしょう、最近心底から震えるような作品には出会えていないんですよね。
 それこそ『ニューロマンサー』や『魚舟獣舟』のように、読んだ瞬間脳天から串刺しにされるような、と言えばいいんでしょうか、そんな衝撃を受ける作品に会えていません。私の感性が衰えたのかとも考えましたが、そうではないと仮定して今日は一本記事を書いていこうと思います。

 端的に言ってしまうと、最近読者もとい、受け手の質って下がったように感じるんですよね。いえ、これを読まれている皆さんを批判するわけではなく、市場全体を見たときの話です。
 私はSF畑にいますから、SF作品をメインに読んでいます。もちろんSFの特性上、いろんな科学技術や考察、哲学や理論、理念や歴史なんてものまで絡んでくるわけです。私達読者はアカシックレコードを持っているわけではありませんから、作中で説明されていることを精一杯拾って、世界を構築して、自分なりに解釈して作品を楽しむわけです。
 昨日、私の好きな作品をなんとなく調べてみました。私の中の評価と市場の評価が釣り合わないことは常で、その作品も星3.5くらいでした。またレビューの中にこんなことが書いてあったんです。
「難解な言葉や理論の羅列で読みにくく、楽しめない。あまり読書しない僕でも楽しめるような作品を、今後は期待したい。なんでこんな作品が賞を受賞したか不思議」
 これ見た瞬間、めちゃくちゃ腹立ったんですよ。作品が理解できないのは当人の実力不足です。それを棚に上げて「難しいから面白くない作品」と切り捨てるなんて、愚かというか身の程をわきまえていないというか、筋違い甚だしいじゃないですか。
難度と作品の面白さは、そりゃ多少は相関関係はありますが、「分からない=つまらない」「わかりやすい=面白い」ではないはずです。そんな簡単な方程式が成り立つなら、毎年の本屋大賞は『桃太郎』が総なめしますから。

 ただね、これ多分本に限った現象じゃないんだろうなって私思うんです。
少し前にファスト映画なるものの首謀者?が起訴されましたよね。映画を10分前後にまとめたものをYouTubeに投稿して広告収入を得ていたとして、著作権関連でしょっ引かれたのを覚えています。私ねえ、これ、投稿者だけの問題だとは思えないんですよ。
映画館のマナーの話がよくネット記事になっているじゃないですか。「最近の若者は二時間の映画に耐えられない」だとかなんとかで、鑑賞中もラインやツイッターをしてしまうって。そういうのが高じて、「二時間も持たない視聴者へ」向けられたのがファスト映画だと思うんですよね。

 私のスタンスとしては、もちろんファスト映画には反対です。恣意的に名シーンや派手なシーンだけを切り抜いた映画は映画ではなく、ただの情報になってしまいます。グーグルマップのストリートビューを見て旅行した気分になっているのと同じです。
ただ、世間的にはン万円も広告収入がもらえるほど視聴者が、つまりは需要があったわけです。嘆かわしいことです。

 映像にしろ、音楽にしろ、文芸にしろ、芸術にしろ、何かを鑑賞するってそういうことじゃないじゃないですか。五感でその作品を受け取って、自分でかみ砕いて、解釈して予想して、自分の中に落とし込むそういう一連のプロセスがあって初めて、「その作品を味わった」と言えるんじゃないでしょうか。そうやって真摯に向き合うからこそ、感動や恐怖、羨望や嫉妬、いろんな内面活動が現れるものでしょう。
10分で映画を見た気になったり、分かりやすい解説だけで名著を読んだ気になっているのは、学歴や年収だけで人となり全てを理解したつもりになる愚かな行為です。

 ただ、悔しいかな、ファスト映画や名著解説を好む人の気持ちが分からないわけではないんですよ。情報が加速されすぎた近年の世の中で、腰を据えて作品を楽しむ時間って取りにくくなったじゃないですか。やっと作った余暇の中で、他にもやりたいこと/できることがある中、映画鑑賞や読書をわざわざ選んだのに、つまらないものは引きたくないって気持ちは多かれ少なかれ誰にでもあると思います。
 でも、それが許されるか否かについては別問題です。名著解説が流行った結果、ファスト映画みたいな不埒な輩が出現しました。先の解説だって、「50ページで分かる!『百年の孤独』」みたいなものがあったら、『百年の孤独』自体よりも解説本の方が受け入れられると思います。もう世間にはそういう風潮が根を張ってしまったんですよね。
 これに関しては冒頭でも述べたように、「鑑賞側の質の低下」が根本にあると思っています。作品と真摯に向き合う姿勢が減って、“分かった気になる”簡単なものばかりを摂取すれば、言わずもがな受け手の能力は落ちてしまいます。
その結果、映画にしろ本にしろ、「(理解する努力が不要な)簡単で分かりやすいもの=面白いもの」となってしまったんじゃないかな、と私は分析するわけです。

 そういう社会の中で、できれば私は抗っていきたいんですよね。皆さんも経験ないでしょうか。心がぐっちゃぐちゃになるほど素晴らしい作品に出会って、誰彼構わず進めたくなるような経験。もしくは、何年経って何度繰り返し鑑賞しても、その都度新しい発見があって同じ作品なのにいつも別の角度から驚かされるようなこと。
私はね、そういう経験こそ作品鑑賞の本質だと思うんですよ。世に出すところまでは作り手の仕事。でもそれだけじゃ作品は完成しません。私達受け手がそれを受け取って、自分の中に落とし込む。そこまでして初めて作品それ自体が完成するんだと思っています。戯言ですかね。それでもいいじゃないですか。
 少なくとも、上辺だけを撫でて深層まで覗いた気になる道化よりは、不格好で回りくどい痴れ者の方が作り手も喜んでくれると思うんです。私が作品を楽しんで、作者がそれを喜んで、そういうwin-winの関係が創作にはあってほしいじゃないですか。

 皆さんはどういう面持ちで普段作品と向き合っているんでしょうか。似たようなお仲間さんがいらっしゃれば幸いです。

 

ゲヘナより愛を込めて。

あの日見つけた知らない場所へ

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    ご無沙汰しています。一応生きております。

 この土日から水曜日にかけて、一旦帰省しておりました。ちょっとしたごたごたがありましたので。

 私、神戸に来るときに、荷物はほとんど実家に置いてきたんですよね。本はオールタイムベストの数冊を除いて、自宅の押し入れに入っていますし、服なんかも持ってきたのは必要最低限で、新生活スタート!みたいな感じで引っ越したんです。

 だから、じゃないですけど、実家には昔の私の思い出が塩漬けされて置いてあるんです。幼い頃の、親が残しているものもありますし、私が趣味で集めたものもあります。CDなんて顕著な例ですね。昔は今ほどサブスクリプションタイプの音楽配信サービスもなかったですし、レンタルショップで借りてMDに落とすなんてことをしていましたね。私は好きなアーティストは対価を払って応援したいので、好きな歌手のCDはできるだけ買うようにしていました。CDプレイヤーもありましたけど、もっぱらウォークマンに入れて聴いていました。ちなみに今でもウォークマン派です。

 

 私が買って集めた中で一番多いのが、奥華子でした。他の歌手やグループよりリリース頻度が低いっていうのもあるんですが、中高生の頃は奥華子に心酔していたってのもあります。失礼な話ですが、当時の奥華子はそこまでメジャーでもなく、知られている曲は『ガーネット』くらいでした。『時をかける少女』のメインテーマですね。だから、なんていうんでしょう、CDを買うことで「私が応援している」なんて思いあがった感じがあったんですよね。でも好きなのは事実ですよ。

 奥華子のアルバムは、ベストアルバムの「My Letters」までは全部初回限定版で買ってましたし、多分今でも口ずさめます。特に「僕の知らない君」「さよならの記憶」「初恋」「帰っておいで」「透明傘」「鏡」あたりなんか特に好きですね。好きな曲を挙げたらキリがないんですけど。全部いい曲なので聴いてみてください。

 

 奥華子の代表曲の「ガーネット」のカップリング曲で「変わらないもの」っていうのがあるんです。これも『時をかける少女』の劇中で流れるんです。タイトル通り、「変わらないものを探していたけど、もう手元を離れてしまった」って歌詞なんです。共感、ではないんですけど、この言い分とってもよく分かるんですよね。変わっていくことって残酷なことじゃないですか。現状維持バイアスじゃないですけど、やっぱり幸福な時や大切なものは変わってほしくないですよね。

 私、久し振りに高校や中学の友人と会うと「やっぱり変わらないな」って言われるんです。周りはみんな大人になって、仕事や家庭でいろんなものを抱えますよね。その中で図らずも大なり小なり変わっていくんです。きっとそれは成長と呼ばれるものなんでしょう。大人は夢を見ない。大人は理不尽に耐えられる。大人は忖度ができる。なによりも、大人は現実を見据えられる。こういうことをきっと「成長する」「大人になる」っていうんでしょうね。

 昔みたいに、ファミレスでポテトとドリンクバーだけで数時間居座ったり、意味もなくオールしてみたり、公園でだべってみたり、そんなことを「無駄」と切り捨てられるのが大人なんでしょう。変わっていくってことなんでしょう。

 でも、それじゃああまりに寂しいじゃないですか。「あの頃は若かった」と切り捨てるには、そんな思い出はあまりに大切すぎるじゃないですか。だから私はできるだけ、一緒に年を重ねてきた友人達の前では変わりたくないんです。それもきっと、私の単なるエゴで、周りからは「もっと大人になれよ」って思われているかもしれません。

 

 大人、ってそんなにいいものですかね。大人こそ辛いことが多いじゃないですか。多すぎると言ってもいいくらいです。その中で、夢を見ないで現実を見続けて、そりゃ疲弊しちゃいますよ。疲れた、って休める場所が必要ですよ。私がそんな場所にありたいなんて傲慢なことは言えませんが、私の姿勢を見て、腰を落ち着けて昔に戻れる人が一人でもいたらいいなって思います。

 今の世間を見ると、誰もがいがみ合って、経済的に厳しい世の中で各々生き残りに必死で、他人を蹴落とすことを厭わなく見えます。パンとサーカス、パンもろくに手に入らず、サーカスは規制されて、ネットでは他人を叩くものが跋扈します。せっかく今までの環境が変わるいい機会なのに、結局のところほとんど変わらず事態は好転することはないんでしょうか。

 新型コロナの影響で多分皆さん今まで以上に一人の時間や家族の時間が増えたと思います。こんな機会にこそ、一度昔の自分に立ち返っては如何でしょうか。原点でもいいですし、出発地点でもいいですし、あの頃変わりたくなかったもの、変えてほくなかったものを見つめなおしてもいいんじゃないでしょうか。

 

 なんでしょう、うまく言いたいことがまとまらず、すみません。

 これからも私は私のまま、変わらないでいこうと思います。稚拙な泥人形は、今日も泥濘を這いつくばっています。

 

 ゲヘナより愛を込めて。

砂時計はあと少し

 ご無沙汰しています。

 最近激務で、全く自由な時間が取れていません。

 四連休は四万十川に行ってきました。川も綺麗でしたが、曼殊沙華も綺麗でした。

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 今月だけで、年間予算の半分を売り上げるので、激務なのは仕方がない、とは思いますけど、家に帰って毎日床で寝落ちして、2時頃起きて風呂なり家のことなりをして、の毎日のサイクルにちょっと疲れてきました。

 今月は全然原稿も進められていません。もうあんまり時間ないんですけどね。

 

 さて、覚えている方がどれだけいるかも分かりませんが、私の26歳が終わるまで、もう二週間程になりました。これについての記述は過去の記事を参照してください。

gleich-sterbe.hatenablog.com

 もう二週間なんです。宣言通りに考えれば二週間後には私は存在しないはずです。でも、正直に告白しましょう。あと二週間では死までの覚悟も準備も活力も、何もかもが足りずに遂行できそうにありません。啖呵をきっていた手前、大変不甲斐ない結果になってしまい、申し訳ありません。

 

 私の言葉でOOさん、申し訳ありません。質問箱に直に訴えてくれましたね。どなたかは大体分かっています。あなたのツイートでしかあなたの実状や抱えているものを推し量るしかありませんが、並々ならない苦労をされてきたようですね。私のようにぬるま湯に浸かった泥人形に何を言われても、と思われるかもしれません。でも、ツイートでしかあなたを知らない私からすれば、あなたは十二分に立派で、人として研鑽を怠らない、眩しすぎる方です。今後もあなたの人生に幸溢れんことを祈っております。

 私を気遣ってくれた後輩へ、同じ作家志望としてあなたの活力や功績には尊敬の念しかありません。きっと才能も愛もあって、同じだけの努力を続けてきた結果でしょう。職場のことで悩まれているみたいですが、一番望む形に転べるといいですね。応援しています。あなたが私を多少なり評価していくれていることを知っていますが、私はあなたが考えているような人物には、なれそうもありません。ごめんなさい。

 

 あと二週間ですが、きっとそれを過ぎても私は惨めに汚らしく生きているでしょう。遺作、ではないですが、今やっている原稿くらいは完成させたいな、と考えています。それが活力、というよりは意地です。虚勢です。

 今の作品、構想にもう五年くらい続けてきているので、せめてこれくらいは完成させたいんです。それ以降、一応ハヤカワに出す予定ではありますが、多分結果は芳しく振るわないでしょう。それを皮切りに、でいいかなと思います。前の記事でも言いましたけど、「生きていたい」というよりは「死なない理由がない」んです。

 

 私の悪いくせで「過度の一般化」をよくするんですけど、今の日本を見てみましょうか。政治面は言わずもがな、思わしくないですよね。毎回誰かが糾弾されて、国民よりも既得権益を守るための政策ばかりです。「選挙で若年層の投票率が変われば」なんて意見もありますが、基本的に四年スパンの選挙で多少若者の投票率が上がったところで、現状が改善されるのは何年後でしょうか。四年後でしょうか、八年後でしょうか。その頃、私たちの世代は見事な中年になって、「若年層に関心がない政治」の対象から外れますね。”今“困っているのに、今は永遠に改善されないんです。

 世間を見てみましょう。二十代後半といえば、そろそろ結婚を考えて、子供を、持ち家を、と将来構想するくらいじゃないでしょうか。晩婚化や初婚の年齢上昇が叫ばれる昨今ですが、世間一般的にはそろそろな年齢であることも確かです。バブル期とまでいかなくても、大体これくらいですよね。私は結婚も子供も縁がありませんので、そういうことを考える必要も権利もありません。独りで静かに腐っていきます。

 経済に目を向けましょう。東京都では最低賃金の改正がありましたね。時給換算で高々数十円だったかな、と思います。そんな上昇率で市民の生活が改善できると思っているんですかね。アベノミクスでは民主党政権下に比べて、日本は確かに豊かになりました。日経平均の値を見れば一目瞭然です。ただ、私たち市民の生活には満足に還元されず、景気がよくなったという実感はありませんね。税金は上がっていくのに、年金は搾取され続けるのに、生活は全く楽になりません。なんでなんでしょうね。この前計算したら、現在社会人四年目の私の給料、手取りで計算して、一日当たり一万円もいかないんですね。平日五日間、好きでもないことに従事して時間を浪費して、その対価がこれってあんまりじゃないですか。

 「節約すれば十分暮らせる」なんていいますけど、なんで普通に生活するのに「節約すること」が前提なんでしょうか。毎日飲み歩いたり、高級ディナーに足繁く通っているわけでもないのに、おかしいですよね。

 

 もうね、未来に希望なんて持てないんです。

 夢見るだけ馬鹿じゃないですか。もうなんにもないんですよ。なんにもないんです。

 

 状況が好転することを期待するのに疲れました。自分に何かが成し遂げられると虚妄を抱くのに疲れました。だからきっと、二週間以内には無理でも、そろそろ終わりです。

 人生が激変することでもあれば変わるんでしょうか、多分そんなことは起きないでしょう。

 現実主義で虚無主義ですが、もしかしたら自分の厭世観酔っているだけかもしれません。

 でも私の人生じゃないですか。逃げてもいいじゃないですか。所詮、今まで逃げ続けていたしょうもない人生なんですから、最期まで惨めに尻尾巻いて逃げてもいいじゃないですか。

 

 皆さんはこれからもきっと希望を見つけて生きていけるでしょう。

 幾久しく、健やかに。

 

ゲヘナより愛を込めて。

盆に還らず

 ご無沙汰しています。

 皆さん、この殺人的暑さの中、如何お過ごしでしょうか。冷房、使ってくださいね。ただ、部屋の窓がワイヤー入りのものの場合は注意してください。室外が40℃近くになって、室内を18℃に設定していたりすると、その室内外の温度差でガラスが割れるみたいなので。

 あと、もしかしたらこの暑さで室外機がいかれるかもしれません。私の詳細を説明できるわけではありませんが、エアコンの室外機って一定の温度以上になると止まるみたいです。元々、10年前とかに製造されたものは、40℃以上や45℃以上になると止まるってストッパーがあるみたいです。10年前はこんな暑くなかったですからね。ただ、ヒートアイランドなのか、地球温暖化なのか、最近意味分からないくらい気温上がっていますから、室外機のオーバーワークで、というよりも普通に気温でダウンするみたいです。今の時期が時期だけにあれですが、もし室外機が止まるなんてことがあれば買い替えることをお勧めします。

 

 さて、ここ最近、嬉しくないことと、嬉しいことがありました。今回はそれについて書いていこうかなと思います。いつも後半が暗い感じになっているかな、と思うので今回は順番を変えてみます。

 

嬉しくなかったこと

 今回のお盆、褒められたことではないですが、私帰省したんです。不必要な人込みは避けて、人と会うときも屋外がほとんどでした。本来なら神戸の自宅に籠っているべきなんでしょうが、少し思うところもありましたので。

 

 以前ブログにも書きましたが、伯父が3月に亡くなったんですよね。癌でしたが、63歳の、早すぎるものでした。祖父母が二人とも74歳で亡くなっているんですが、それと比較してもまだまだ若かったな、と思います。私の両親は、父は多少体調がよくはないようですが、母は多分健康体です。でも、やっぱりいつ何があるか分からないじゃないですか。このご時世、それこそ新型コロナに罹患して亡くなりでもしたら死に目に会えないどころか、対面するのは遺骨になってから、とも聞きます。関東と関西の距離がある以上、頻繁に顔を見せられない親不孝者ですが、だからこそこういう状況でもせめて親の顔は見ておきたいな、と思ったんです。

 

 親は元気でした。ただ、実家に住んでいる弟との仲が険悪なようで、朝の言い争いで目が覚めることもありました。私の実家ね、離婚しているんです。私が高校生のあたりでしょうか。そのあたりから両親の不仲は顕著になってきました。

 頭脳労働派の私と、肉体労働派の弟のことで揉めているのを何度も見たことがあります。父は高卒で働いて、今一定の地位にいますから「勉強ができなくても社会でやっていける」と言うのに対して、母は「今の時代、良し悪しはともかく大学までは出ておくべき」というタイプでした。どちらの主張することもよく分かります。

 弟は運動神経がよくて、バスケをやっていたんですが、何かの選抜に選ばれたこともあるみたいです。そのまま進めればよかったのですが、不良趣味に走ってしまった時期があり、夜遊びや未成年喫煙もありました。そういうところを種に家庭内不和が広がっていったのかな、とも思います。

 勿論、全ての原因が弟ではなく、私は私で家族を繋ぎとめる努力もせず、我関せずでしたから同罪ですね。弟の高校卒業を待って、かろうじて保っていた家族の形は瓦解しました。両親は離婚し、私は母に、弟は父についていきました。ですが、弟は弟で父と二人で生活するのにそりが合わず、今は母の方へ転がり込んでいます。揉めている原因は、弟の止まない夜遊びと生活費が原因のようでした。

 私は私で、弟と腹を割って話すこともせず、やっぱり殻に籠っていましたから、駄目ですね。多分一番の戦犯は私でしょう。

 そういうのを見ているとね、「もう私の家族は家族として成り立たなくなったんだな」と強く感じてしまいました。前は、それこそ私が小学生の頃はまだ、仲がいいとまではいかずとも家族だったのに、どうしてこうなってしまったんでしょうね。

 

 私、そんな家族を見ているのが嫌で、夜中に一人で自転車に乗っていたんです。離婚を機に母について家を出ましたが、同じ市内に住んでいますので、かつての実家まですぐに行けます。父が住んでいるはずなんですけどね、やはり、といいますか、なけなしの小さな庭は荒れ切って、柵を見まがうほど大きな雑草だか植木だかが繁茂していましたし、窓から見えるカーテンは黒く汚れていましたし、外壁も周りの家に比べてくすんで汚れた色をしていました。正直、見るに堪えなかったです。だからすぐその場から逃げました。

 その家には幼稚園年中の頃い越しましたから、家の周りいろんなところで遊んだんです。その思いで巡りじゃありませんが、知っているところ、記憶にある場所を巡りました。昔、涼をとったスーパーは倉庫になっていました。走り回った広場は老人ホームになっていました。ザリガニ釣りをした沼は駐車場に、その地域で大きかった家は取り壊され、昔通った路地は潰されて、日曜日には週刊少年サンデーが並ぶ個人商店は廃業していました。四年間、私が神戸にいる間に、そんなに変わってしまったんです。もしかしたらもっと前からそうなっていたのかもしれません。でも、今回初めて気が付きました。

 もうね、私が育った土地ではなかったんです。あの頃の風景はもう見られないんです。私の育った町は私の知る町ではなくなってしまったんです。

 ここに来てやっと気付いたんです。私、帰省したいとは思いますけど、今の実家に帰りたかったわけじゃあないんだなって。あの頃の、まだ擦れていない、家族も家族で、私の知る町並みのあの頃に帰りたかったんです。それがもう駄目になっちゃいました。これから何処に帰ればいいんでしょうか。

 

 

 

嬉しかったこと

 対して嬉しかったことですが、お盆でも何でもないんです。端的に、このブログを褒められたことです。後輩もブログを書いているんですが、(もう完全に読者数で負けていますが)私のブログを参考に見出しを付けたと言ってくれたり、小説みたいで読みやすいって言ってくれたりするんですよね。他にもTwitterのフォロワーさんから「文才もさることながら、内容が身に染みて引き込まれる」なんて言われたこともありました。

 この場を借りてお礼申し上げます。あなたたちの一言があったから今日も私は記事を書けています。ありがとうございます。

 

 いつも通り辛気臭いものになってしまいましたね、すみません。

 褒めてもらえて嬉しかったから、私もできるだけ褒めようと思います。私に褒められて嬉しいかはさておき、そんなに多くできるものじゃないですかね。

 

 しばらくはこの、あまりに暴力的な酷暑は続くみたいですが、皆さんちゃんと水分補給してエアコンつけて快適に過ごしてくださいね。エアコンの電気代より、熱中症で倒れた時の病院代の方が高いですよ。

 それでは。

 

ゲヘナより愛を込めて。

水素に生まれ変わりたい

 梅雨が明けないで嫌ですね。神戸は今日も雨が降っています。

 

 もうすぐお盆ですね。帰省する予定ですが、多分、ほとんど人と会えないんでしょうね。時期が時期ですし。緊急事態宣言が出る前よりも感染者が増えていますからね。

 なんで緊急事態宣言をもう一回出さないか気になる人もいるんじゃないでしょうか。私もざっくり調べたんですが、政府は経済効果をかなり気にしているみたいですね。再宣言をすれば、また休業補償や給付金をばら撒かないといけませんからね。今の状態でそんな財源も余裕もないんでしょう。このままいけば4月より確実にひどいことになるのにね。看護師さん達はこの大変な中、文字通り命張って働いたのに、夏季ボーナスカットやら手当カットやらありましたからね、今退職希望者多いみたいです。

 

 さてさて、コロナ騒ぎでいろいろ忘れていましたけど、もう2020年も半分が終わったんですね。早いもんで、あと4ヶ月ちょっとで2021年に入りますね。歳をとってから、こと社会人になってから一年過ぎるのが本当に早くなったと思います。平日は早く終われと祈って、休日は夕方くらいまで寝て、大学を卒業して四年間、何をしていたんでしょうね。

 最近ね、よく思うんです。今まで生きてきたのは何のためなんだろって。ここ十年分くらいあんまり覚えていないんです。イベントがあった一日とかはピンポイントでは覚えていますけど、それ以外の日常?をどう過ごしていたか、ほとんど覚えていないんです。

 大学のどんな場所が好きだったか、いつもどこにいたか、休日はどう過ごしていたか、日課はあったのか、思い出せないんです。覚えていない、というよりも混濁している、と言うほうが正確かもしれません。時系列が因果関係がぐちゃぐちゃになってアイコンは浮かぶんですが、全体像が出てこないんです。

 仕事を始めてからの記憶はより顕著です。一年目のことなのか、二年目のことなのか、去年のことなのか、先月のことなのか、記憶を手繰ろうとするのは、ひっくり返した本の山から一文を探すくらい手間で煩雑です。

 

 私ってなんなんでしょうね。最近あんまり喜怒哀楽、といいますか、感情の起伏もなくなってきました。本当ならね、GWはバイクで帰省して地元の友達と会って、5月下旬にはタイに旅行に行って、7月の四連休は高知の四万十川まで行って、って予定を立てていたんです。お盆も久しぶりに実家で特に予定も立てないでゆっくりしたいな、とも思っていました。でもね、ぜーんぶダメになったんです。コロナと長引く梅雨、私の実家事情のせいで、私が立てていた予定全部ダメになりました。

 4月以降、怒られる数が増えたんです。怒られない週はありませんでした。私なりに、それなりにやっているつもりではあったんですが、どうにもやっぱりダメですね。何度も怒られるうちに、とうとう課長から「この調子じゃうちの部署には置けない」って言われました。私を管理して一人分働かせるより、課長が余計な負担を被っても私を除籍する方が得、と判断されたんです。幸いまだ同じところにいますが、明日飛ばされても仕方ありませんね。

 そんなことがあって、何よりも迷惑をかけないように立ち回って、繁忙期でもなんでもないのに退勤は毎日20時過ぎで、そんな生活がここ二ヶ月くらい続いてます。そんな状況を忘れたくて、ひとまず現実から離れたくて、遠くに行く予定を立てていました。

 でも、それもかないませんでした。考えすぎだってのは自分でも分かっていますけど、なんかもうこうも続くと、世界中が私の楽しみを潰すために動いているんじゃないかって思うんですよ。長く続く在宅勤務で、寮の粗末な椅子に座り続けて腰を壊しました。除湿器が故障して、降り続く雨と湿気でスーツ二着にカビが生えて捨てました。四月からろくなことがありません。なんで私だけなんでしょうか。

 

 発達障害のせいにすれば全て解決するんでしょうか。周りのせいにすれば全部腑に落ちるんでしょうか。多分、両方とも違うんでしょう。普通の、立派な、人間らしい、人なら「残念だけど仕方ない」「悲しいけどしょうがない」と割り切れるんでしょうか。私には無理です。無理でした。だからいつも我を通そうとして、人間関係にヒビを入れてしまうんでしょうね。能力がないのに権利の主張ばかりだから周りから嫌われるんでしょうね。全部自分で蒔いた種、全部自分の責任です。しょうがないですよね、どうせあと二ヶ月ちょっとなんでようし、それすらダメなら、本当にもうどうすればいいんでしょう。

 

 早く、ゆっくり休みたいです。

 

 ゲヘナより哀を込めて。