虚勢の銀貨

東村の日々の記録

生きにくいってさ

 「生きにくさ」「生きづらさ」こんな言葉を近年よく聞く、目にするようになったと思います。最近の景気が悪化したから、精神的に弱い人が増えたから、なんてそんな理由ではなく、単純に人が自分について発信できる場所が増えたからだと思います。10年前でも、100年前でも、今と同じような割合で生きにくさを感じてきた人はいるんじゃないでしょうか。

 そもそも「生きにくさ」とはなんなのか。私が勝手に師事している人に言わせれば、『そもそも「生きにくい」と語られるときの「生きるとはなんなのか」について、「易い」「難い」よりも先に問われるべきではないか』なんでしょうけど、私は所詮俗物ですから、ここではまず「生きにくい」とはなんなのかについて考えてみます。(ちなみに今13:30、絶賛就業時間中でござます)

 

 かく言う私も、生きにくいと感じている一人です。統計を取ったわけでも、人生経験が豊かなわけでもないので、ここに挙がるのは私の経験則を元にした、極狭義的なものと受け取ってください。

 海外での生活経験はないに等しいほど短く、日本国内だけになりますが、日本国内で一般的に「生きる」とは、二つに分けられると思います。「勉強すること」と「働くこと」。この二つについて明確な論拠、根拠を持ってNOと言える人がどれだけいるでしょうか。

 ワークライフバランスの標語の下、「私は仕事のために生きているんじゃありません」と声高に宣言することは簡単です。ですが、どれだけの企業がそれを達成でき、どれだけの社会人がそれを実感できているでしょうか。

 私は現在社会人二年目として無能ながらに利益を出しますが、これを実感したことはありません。無論、弊社もワークライフバランスを掲げていますし、有給も取りやすく、お盆や正月、GWは長期休暇にすることは可能です。ただし、そのためにはこの言葉が呪いのように付きまといます。

「業務調整のもと」

つまり、「休みが欲しいなら自分で調整して作れ」というんです。私の先輩はプロジェクトの関係でGWは三連休+四連休になっていました。これでも大分恵まれた環境なのでしょう。都合のいいときは「会社の利益」、都合が悪くなると「個人の責任」。上記の業務調整のために、GW前後で無理に残業する同期もいました。休むために働かされる、私はこの図式が大嫌いです。

 

 閑話休題、その「生きること=働くこと」の日本における生きにくさとは、単純に仕事ができない、コミュニケーションがうまく取れない、人間関係が劣悪、などなどいろいろあるでしょう。

 でも、私が感じているのはもっと別種のものです。幸いにも、職場や友人の人間関係には恵まれ時折の摩擦はあるものの、極平均的な人としての繋がりくらいは持てていると自負しています。その居心地のいい中にいてさえ、感じる違和感というものがあります。

 周りが水に浸かっている中、自分だけが海水に浸かっているような感覚。

 集団演武で自分だけ鏡写しの演技をする非一体感。

 自分だけ顔の周りにフィルムを巻いて話しているような息苦しさ。

共通点が判りますか?

 どれも周囲との関係性の中に感じる違和感なんです。一人でいるだけなら特に何もおかしくはないんです。海水に浸かって、鏡写しでも私一人ならそれをそれとして受け入れられるんです。でも、社会生活(仕事以外にも、人と関わるときの全て)ではどう足掻いても一人ではいられません。一つ一つを見れば小さな違いかもしれません。でも、積もり積もって気付いたころには身動き一つ取れないほど、違和感という泥濘に足を取られていくんです。

 真水の甕に浸かっている普通の人は「考えすぎだよ」「そんなことないよ」なんて言ってくれますが、私の周りに広がる水源に足を入れると、腐臭のする違和感の集積に気付くと、自然とみんな離れていきます。誰だってべたつく海水は好きではないでしょう。どなただって好んで悪臭に耐えようとしないでしょう。

 別に私は被害者面をして、「こんなに可哀想だから、もっと構って、もっと助けてくれ」ってことが言いたいんじゃありません。事実、私は今の誰にも判ってもらえない方が気楽です。言いたいのは、「生きづらいと感じるのはこういうこと」、ただそれだけです。

 私の経験則でしかありませんし、他からこういう話を聞いたわけではありません。ただ、こう感じているだけです。

 単純で判りきったことかもしれませんけど、「生きにくい=違和感に足を取られる」ことだと私は思っています。

 たまに、本当にたまーに、その腐臭の泥濘からダイヤモンドが見つかったりするんですけどね。

 

 

ゲヘナより哀をこめて