虚勢の銀貨

東村の日々の記録

死にたがりの人魚姫

 「私、イリーナはその日も海の中で沈んだ本を読んでいた。

人間の言葉で書かれた本。人間の言葉――そう、つまり文字が読めるのは海の中で私だけ。誰に習ったわけでもないけれど、気が付いたら自然と判っていた。人魚や魚、カニやタコ達が使う海藻や貝殻の文字盤とは違って、とても壊れやすい、すぐにぼろぼろと零れてしまうものに書かれた文字。それに紙って名前があることを知ったのはもうずっと昔のことだった。

 人魚は歳を取らない。いや、それは言いすぎだけど、少なくとも人が生まれて老いて衰えるくらいの時間じゃ、人魚は全然成長しない。私だって、今からどれくらい前に生まれたかなんて覚えていない。

 私には姉さんがいる。四人の姉と、私。五人姉妹の末っ子の私。

長女のアリア姉さんはとても綺麗な髪を持っている。黒真珠のように滑らかで、朝の海みたいに光っている。

 二女のウルナ姉さんはとっても美人。お母さん、つまり海の女王様も美人だけど、やっぱりウルナ姉さんの方が、目も大きいし笑顔なんて小さな泡が弾けるみたいに可愛い。

 三女のエレーン姉さんは歌が誰よりも上手い。コンサートでは引っ張りダコだし、結婚の申し込みだって毎日来ると言ってもいいくらいだ。

 四女のオーリ姉さんはとても物知りだ。私や他のお姉さん、お父さんやお母さんが知らないことまで何でも知っている。どんな問題だって、オーリ姉さんに訊けばすぐに解決してくれる。

 なら、私は? 私には何があるの?

 私の髪は綺麗な黒じゃないし、先がくるんって丸まっている。羨ましがられる程の美人でもないし、歌だって普通。文字は読めるけど、それが何を指すのか――人が海を渡るために乗るのが船ってことくらいは判るけど――誰かに訊かないと想像もできない。

 昔誰かが言った。私は姉さん達の駄目なところを集めたんだって。でも気にはならなかった。私は本が読めるから。エレーン姉さんみたいに歌が上手くなくても、オーリ姉さんも知らない物語を知っているから。

 私は悲恋の物語が好きだった。胸の奥がちりちりとむず痒くなるのが恋。腕を失くしてしまったような怖さと痛みが失恋。それくらいは私にも判る。そして、最後に結ばれない二人が最後に崖の上から海へ飛び込む。待ちうける死という怪物。初めて目にした時に私はどれ程驚いただろう。悲恋なんて言うけれど、絶対に嘘だ。だって、私にはこんなに美しく見えるのに!

 死を、私は知らない。誰かが死ぬなんて経験したこともないし、オーリ姉さんに訊いても、あんまり詳しいことは知らなかった。

 死は完全な未知だった。どこにあるわけでもない、でも、どこにでもあるような――。人間の本を読んでも、余計判らなくなるだけだった。でも、そのうちに一つだけ判ったことがある。人間は死が好きってこと。結末は二人で死ぬか、一人が死んでもう一人が泣く。それがお決まり。つまりお決まりに使われる程、人間達は死が好きなんだ、愛してるんだ。

 

 ある日――とても海が荒れた日――私は波とは違う音を聞いた。気になってその方向に泳いで行くと、一人の人間が海の中にいた。人間は海に滅多に入ってこない。いつも海岸の浅いところで遊んでいるだけ。でもこの人間は違った。私達が住む様な深い深い海に入って来た。

 その人間は短い髪で、お父さんみたいに険しい顔をしていた。顔は私よりずっと熱くて、でも私よりずっと青白かった。不意に思い出した、いつか本で読んだことを。人間は海に入って、顔が青くなったらもうすぐ死ぬってことを。私は急いだ。急いで男の体を引っ張って海面に出した。

 海から上がることは、人魚にはできない。体が海の中より極端に弱くなるし、息も苦しくなる。でも必死に、背中に人間を乗せて、彼の顔が水面からでるようにした。急いだ、急いだ、急いだ――。今まで泳いだことのない距離を、今まで経験したことのない速さで泳いで、岸まで急いだ。この人を岸まで連れて行かないといけない気がしたから。私達人魚と違う、彼の身に着けているもの――つまり服――はずっしりと重くて、途中何度も私の腕と背から滑り落ちた。その度にまた彼の体を掴んで泳いだ。

 いつしか波も穏やかに、太陽の光が私達を照らしていた。灰色の汚い雲の隙間から顔を覗かせて、じっとこっちを見ている。

 岸のぎりぎりまで近付いて、私は彼の体を離した。浜辺へゆっくりと崩れる波が彼を運んで、流れるような優しさで陸に揚げてくれた。水平線の向こうへ、大きな太陽が沈んでいく。水面から少しだけ頭を出して彼を見た。

 まるで本の物語だ。そう思った。悲恋のお話なら私が彼に恋をして、でも彼は別の人と結ばれて、私は崖から海へ飛び込む。いや、もしかしたら彼がとても重い病気で私と結婚できても死んでしまう、そんな本も読んだことがある。

 その時私は初めて見た。人間の住む場所は荘厳だった。人魚の城も立派だけど、人間のは、それよりももっと大きい。黒くて、柱の上には火が灯っている。火を見るのは初めてだ。海の中じゃ火は使えない、もっともそれで誰一人困ったことはないけれど。

 綺麗――そう思った。

 

 それから私は姉さん達の目を盗んで何度も海岸へ泳いだ。特にオーリ姉さんに見付かったら何を言われるか。人魚は人間に会ってはいけない。何年も何年も、きっと生まれた時からそう言われていた。

 でも私はその言いつけを破った。海岸の岩場に手を突いて、水面から少しだけ顔を出す。その時は普段よりも人間の数が多かった。みんな黒い服を着て、たまに涙を拭いている人もいる。その中に彼を見付けた。私が見付けた彼。動きにくそうな、黒い大きな服を着て、横に長い、木の箱の傍に立っている。大勢で木箱を岸から海に押し出した。

 その木箱は流れに乗って沖に出た。多分人間は船に乗らないと来ないような、岸からうんと離れたところまで。私は思い切ってその箱を開けてみた。中に入っていたのは綺麗な顔をした女の人。両手を組んで、その上に花束が置かれてる。ひっくり返って女の人が海に落ちないように気を付けて、私は彼女の頬に触った。

 冷たい。

 前にあの男の人を助けた時よりも冷たかった、そして硬かった。人の体じゃないみたい。

 私が声をかけても、頬を叩いたりつねったりしても、女の人は何も言わない。ずっと目を閉じて、少し口を開けて、でも何も言わない。

 その時唐突に判った。この人は死んでいるんだ。人間は、死んだ人をこうやって海に流すんだ。どうしてかは判らない。人間は――少なくとも本の中の人間は、死を嫌っていた。だから多分、死んでしまった人を、自分達から遠ざけるために海に流すんだ。

 私の胸は、今まで感じたことがないくらい、どくどくと大きく脈打った。死んだ人が目の前にいる、それが堪らなく嬉しかった。本の中では知っている。それでも実際に死を見るのは初めてだ。硬く冷たい死んだ人間――死体。なんて綺麗で、なんて柔らかな響き。

 踊った。私は踊った。拙いステップで、不格好にヒレを振って。木箱から彼女を出してあげて、月が海面を照らすまで二人で泳いだ。

 よく人間は、死んだ人を海に流した。入れ物はいつも木の箱だけど、その模様や装飾は違っていた。ゴツゴツした不格好なものだったり、箱の角も取られて滑らかな芸術品だったり。

 

 いつしか私は抑えられなくなっていた。何をしていても――家にいても、姉さん達と話していても、地上のことが気になった。死人を流す謎の儀式も、いつもいる私が助けた男の人も。どうしようもなく地上に出たくて、どうしようもなく間近で死を見たくて。

 姉さん達がぐっすりと眠っている間に、私は前にオーリ姉さんとアリア姉さんが話していた北の海の魔女のところまで泳いだ。魔女は、魔女が欲しがるものを一つあげれば何でも願い事を叶えてくれる――そういう伝説は確かにあった。

 でも今まで魔女に会ったって人魚の話は聞いたことがないし、それにもし魔女に会えても、私が何をあげられるのか判らなかった。だから海藻のポーチに私が持っている真珠や宝石を目一杯詰め込んだ。きっとこの中だったら一つくらい気に入ってもらえるはず、そう信じた。

 魔女の住む穴は、暗い暗い海底の裂け目の、更にその奥にあった。月の光も全く届かないような深い穴。群れになったホヤの、小さな存在を証明する明かりだけを頼りに、私はおっかなびっくりその中へ静かに泳いでいった。

 魔女の家は私が思っていたよりも広く、イカやタコ、他のプランクトン達が照らしていた。穴の最奥部、一際巨大な岩に腰掛けて、魔女はそこにいた。青い肌に二本のヒレ――私達人魚は、肌は白いしヒレも一つしかない。魔女は、最初から私が来るのを知っていたみたいに、よく来たね、と声をかけてきた。私は魔女に言った。海の上に行きたい、地上を歩いて、暮らしてみたい、って。彼女は何度も頷いて、頷いて、洞穴を更に掘って作った棚から一つの小さな小瓶を手に取った。

 誰かに恋したんだね、いいんだ、皆まで言うな、判るよ。と私の話を聞こうとしないで、片手で小瓶を弄んだ。中のアメフラシみたいな色をした液体がどろりと揺れる。私は誰にも恋なんてしていないし、そもそも恋がどんなものかも知らない。本には何度も書いてあったけれど、実際に体験したこともないから、胸の奥がちりちりと焼ける気持ち、そんなもの想像もできない。私は恋なんてしていない。私が知りたいのは、恋をした人の気持ちじゃなくて、本で読む悲恋の物語のその先なんだって、そう声高に言ってやりたかった。

 これをあげる代わりに、条件があるよ、と私に向けて小瓶を傾けながら魔女は妖しく微笑んだ。でもその条件を、私は覚えていない。その薬を貰う代わりに声を差し出したけれど、そこからは何も覚えていない。

 

 気が付けばリーフの中にいた。海水は暖かく、私が普段生活している場所では見ないような小さな魚が口々に歌いながら泳いでいる。陽も高く、確かにここで泳げば気持ちいいと思う。ガンガゼの白い目が私を見つめ、私がそれに微笑み返すと恥ずかしそうにトゲで目を隠してしまった。ミノカサゴが立派な背ビレと腹ビレを振って泳ぎ、ヘラヤガラは珊瑚の影から物珍しそうに私を睨む。その時、一匹のチョウチョウウオが私の手に握られた小瓶に気付いて耳元で叫んだ。ダメだよ、ダメだよ、早く捨ててって。その声に反応して他の魚達も私の周りに集まって、果てには無理矢理取ろうとさえして来た。

 私は追い払って、魚達の制止も無視して顔を水面から揚げた。容赦のない太陽が水に遮られることなく肌に照りつけ、余りの痛みにすぐ海中に戻ってしまった。ダメだよ、ここで暮らそう、と魚達はしつこく私に言い続ける。でも、私が小瓶の蓋を開けた瞬間、皆悲鳴をあげて逃げていった。広い、美しいリーフに独りきり。

 生唾を飲み込んで、その気持ちの悪い液体を飲みほした。途端に体が熱くなって、息が苦しくなって、私はまた意識を失った。

 目が覚めると、月が覗く浜辺に横たわっていた。自分が何処にいるのか判然としなかった。海の中よりも寒くて、でも手を動かすのはずっと楽だった。ぼんやりとした視界の中、ヒレが強烈に痛んだ。まるで割れた貝殻で強く引っ掻き回されるような、優しさの欠片もない痛みが。でもそこにヒレはなかった。腰から伸びるのは、今まで見慣れた赤い鱗に覆われて、海を泳ぐのにとても便利なヒレじゃなくて、人間と同じ、白くて長い二本の脚。牡蠣の内側みたいに滑らかで、でも触ると泣きそうになるくらい痛い。

 そっか、私人間になったんだ――。

 でも普段見られない部分が見えると思うと、急に恥ずかしくなった。岩場に潜んで、海に漂う一枚の布を、それまでと同じように腰に巻いた。そうすると、ヒレがある時と一緒で足の指先まですっぽりと隠れた。

 そのまま、月の匂いと空気の味を楽しみながら、私は一晩を過ごした。靡く髪、こんなものも海の中では経験したことがなかった。風に任せるままに揺れ、海流に似ていても粘度や、運んでくる優しさが違う。海は優しい、でもそれはお父さんやお母さん、姉さん達に似て過保護で、何をするにしても手助けしてくれる優しさ。風は違う。冷たく突き放すかと思えば不意に吹いて来て、いつも見てるよ、と語りかける。

 声が出なくても口笛は吹けた。いつもやるみたいに空気の輪っかを作ろうとしての偶然だけど。自分で出しておきながら、なんて綺麗な音だろう、と思った。頭に浮かぶ、泡のようなイメージを、口先から音に変えて吐き出していく。私が人間になって初めての夜はそうやって更けていった。

 次の日も、その次の日も私は岩場の陰から浜辺を見張っては、打ち寄せる波に合わせて口笛を吹いた。何度も、何度も、何度も、何度も。海の世界は別に恋しくはなかった。嫌いになったわけではないけれど、今この心地いい景色を捨てて、見なれた下の世界に戻ろうとは思えない。姉さん達を含めて人魚の皆は、地上は穢れている、なんて言うけど、私には全てが新鮮で、全てが綺麗で、まだ家に帰ることを考えたくはない。

 脚の痛みにも少しは慣れた。触ったくらいじゃ、もう全然痛まない。でも――意を決して――立ってみようとしたら、砂浜の上に無様に転がってしまった。まだ重力を脚だけで支えることはできずに、皮の剥けた手を棘の山に押し付ける、そんな熱い激痛が脚先から頭のてっぺんまで一直線に貫く。浜に流れ着いた――昔本で読んだ通り、海に長い間流れて角が取れて丸く滑らかになった――木で支えながら立ちあがる練習をしていた時、あの人が来た。私が助けた男の人が。彼は私の姿を見ると大慌てで城に戻って、でもまたすぐに浜辺に帰って来た、両手に箱を持って。それは死んだ人を入れる大きなものじゃなくて、その四分の一くらいで、中には彼が来ているような服がたくさん入っていた。確かに今の私は彼が身に着けている立派な服に比べて、みすぼらしく脚を隠すだけの布切れしか持っていなかった。彼は恥ずかしそうに私と箱の中身をちらちらと交互に見ながら、適当に見繕ったいくつかを、突き出すみたいに――半ば強引に――私に押し付けた。

 それじゃあ寒そうだし、女性がそんな格好をするものじゃない、って彼は言ったけれど、私は元人魚。服なんて着たことはない。貝殻や珊瑚、真珠や人間が落とした宝石で髪を飾ったりはするけど、それ以外は初めての経験。彼は何も言わない――言えない私の頭から大きい布を被せて、それぞれの穴から頭と両手を出させた。腰から下も、ホヤみたいにふわりと覆って、でもクラゲの傘と同じくらい軽やかだった。

 ありがとう、と言えない代わりに私は口角をはっきりと上げて、頭を下げた――そうすることが人間のお礼だ、って本に書いてあったから。

 

 その次の日、私が貰った服を着て、口笛を吹いていると彼がまたやって来た。色んなことを話しかけてくれるけど、私は言葉を返せない。だって、魔女と交換したから。それなのに彼は私に一生懸命話しかけて、私は頷いて微笑んで、そうやって会話した。気が付けば既に人間になってから十回も、朝と夜とを繰り返していた。

 

 その生活が終わったのは陸から上がって十三回目の晩。いつものように波と月と口笛を楽しんでいると、何処からか私を呼ぶ声が聴こえた。声に呼ばれ、流木の杖を突きながら夜の砂浜を歩くと、対岸に四つの浮かぶものが見えた。私は初めて、肝が冷える、というのを体感した。姉さん達だ。私を連れ戻しにきたんだ。四人の姉さんは私を見付けるとすぐに近くまで泳いできた。てっきり物凄く怒られると思った。何も言わずにいきなり姿を消して、今の今まで隠れるように陸にいたんだから。でもそうじゃなかった。姉さん達は泣いていた。

 人魚の涙は真珠になる、真っ白な真珠に。ぽろぽろと幾粒もの宝石を海に零しながら私に声を掛ける姉さん達。違和感があった。姉さん達が泣くことにではなく、もっと判りやすい、見慣れた姉さん達と違うところ。全員髪が肩よりもうんと短くなっている。長くて綺麗な髪が自慢だったアリア姉さんも、綺麗な顔をしてそれによく似合う艶やかな髪を持っていたウルナ姉さんも。皆一様に短くて、顔をくしゃくしゃにして泣いている。

 どうして? どうしてそんなに泣くの? 私はここにいるよ。

 声が出ないけれど、私は必死に手を振った。体のあちこちが悲鳴をあげて、鋭い痛みが襲ってきたけれど、それに構わず手を振った。

 なんで急にいなくなったりするのよ、とエレーン姉さんが澄んだ美しい声で私を責める。イリーナが戻って来られる方法を一生懸命探したのよ、とオーリ姉さんが叫ぶ。私を愛してくれていた全員が、私のために泣いている。どうしようもなくそのことが嬉しくて、それなのにどうしようもなく腹が立って、私もついには泣いてしまった。両目の淵が熱く、鼻の奥がつんと痛んで、涙が出てくる。人魚の涙は真珠になる。そのはずなのに私の目から流れるのは透明な液体の涙だけだった。手と貰った服と砂浜を濡らすだけの頼りない涙。

 

 どれくらい経っただろう。五人の姉妹が泣き果てて、一番気丈なオーリ姉さんが――本当なら人魚が来たら危ないくらい浅瀬まで泳いで――私に短いナイフを渡した。私達の髪を交換してもらったの、それで恋をした相手を一突きすれば薬の呪いが解けて、また皆で海で暮らせるから、このままだとイリーナは死んでしまうのよ、と泣いて。心臓が、海の中では意識したことのない程強く跳ね打って、これが高鳴るってことなんだ。私はそれを受け取って、どんな顔をすればよかったのだろう。ありがとう、の代わりに微笑んで――服が濡れるのも気にしないで――オーリ姉さんを抱き締めた。人間になってしまった私より、姉さんの体はひんやりしていた。

 

 次の朝、男の人は紙と、文字を書くためのペンを持って来てくれた。これなら喋れなくても意思疎通ができると思ったのかもしれない。彼は、ペンの握り方も使い方も判らない私に親切に教えてくれた。初めて触る乾いた紙。嗅いだことのない心地いい匂いがした。初めて使うペン。自分の手から文字が生まれるのがこんなにも嬉しいなんて。

 彼は日が暮れるまでずっと一緒に文字を書いてくれた。色んな言葉も教えてくれて、私は何だか申し訳なくなった。姉さんから受け取ったナイフは服に忍ばせたままで、この人を刺そうとは思わなかった。だって、私はこの人に恋なんてしていないから――。

 

 彼が帰った後も、私は彼が置いて行った紙とペンで書き続けた。手が疲れたら口笛を吹いて、また書き出して、また吹いて。月が夜空の一番高いところに昇る頃、私は不意にまた泣き出してしまった。身勝手なことをした自分と、そんな私のために大事な髪を切ってまで助けようとしてくれた姉さん達。でも、海に帰る気にはならなかった。

 

 ごめんなさい。こんな自分勝手な妹で。

 ごめんなさい。不出来な娘で。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 これが最後のわがままです。ごめんなさい。」

 

 

 そこまで書き上げて、彼女は紙とペンを脇に挟んで歩きだした。不格好に、みっともなく、拙い足取りで、もう長いこと望んでいたあの場所に向かって。

 人魚でいるのが嫌になったわけではなかった。人間の男の人に恋をしたわけではなかった。海の上での暮らしを夢見たわけでもなかった。

 姉や父、母に胸中懺悔しながら、しかしこれから自身がすることを考えると抑えようがない程に心臓が、胸が、高鳴なり、やっと手に入れた両脚も、歩く度に襲ってきた激痛も何もかもが愛しくなって――。

 声にならない声で歌いながら彼女はやっと辿り着いた。どうしても自分で、自分の脚で来たかった場所。悲恋が終わる場所。波が海の怒りを表す程に強く打ちつけるこの崖の上に。

 持って来た自分の物語を足元に置き、風に飛ばされないように石を上に乗せた。呼吸が浅くなり息苦しささえ感じているはずなのに、それすら気が付かない程、興奮しているのだろう。切り立った先端に立って、彼女は自分より先に杖を投げ込んだ。回転しながら弧を描いて、海に落ちて、そして、見えなくなった。乱暴に白泡を立てる波に揉まれて、もうばらばらになったかもしれない。

 さようなら。さようなら。

 彼女は跳んだ。うんと昔に憧れた物語のヒロインがするみたいに。人魚の彼女が暮らしていた海へ、人間の彼女を呑み込む海へ。

 落ちながら、その双眸は崩れていく自身の体を見つめた。きっとこれが、魔女に貰った小瓶の呪い。恋した相手を殺さないと、自分が死んでしまう呪い。こんなにも優しい呪い。

 先の丸まった髪が崩れ、姉を抱き締めた腕が千切れ、やっと歩けるようになった脚が燃えて、狂おしい程会いたかった死が彼女を迎えに来る。

 

 ありがとう、私、今、とっても幸せだよ――。