虚勢の銀貨

東村の日々の記録

ヒース畑の笛吹き男

 村に吹き込む風はいつになく冷たい。

 まだ秋もこれからだというのに、今日は一段と冷えていた。野菜の収穫量は春から軒並み去年までの平均を下回り、村人たちは貯蔵していた乾物や、僅かな貯えを切り崩して生きている。

 少ないながらも収穫できた野菜や、野草、山菜を街に売りに行こうとも、今年ばかりはタイミングが悪かった。二つの山と、橋もまともにかからないような大きな川を越えなければ街道までもたどり着けない。そのため、当然子供に行かせるわけにもいかず、かといって労働力の柱となる青年を向かわせるのもはばかられる。

 加えて、現在の街も財政的に厳しかった。二年前の黒死病の大流行に際して、住民の半分近くが命を落とした。労働力と生産力を一挙に失って、街はまだこの村からの農産品を二つ返事で買うほどの余裕はない。むしろ十代になったばかりの子供を出稼ぎに行かせて食いつなぐところまで衰退しているのだ。この村も困窮しているとはいえ、そうした相手のところに全面的に頼ることは腰が引ける。

 幸い、黒死病の影響はここまでは出で来なかった。つまり、人材だけは数がある。夏からは専ら、農作業よりも近隣の村に肉体労働の手伝いを出し、それで生計を賄っている家もある。男児が多い家庭はそうすれば問題はない。だがそれも少数でしかない。この村は代々女が多かった。だから鋳物師や指物師ではなく、農作物や織物の販売を村全体の生業としているのだ。そしてその織物の売り上げも悪く、主だった販売先の街からの依頼の減り、慢性的な貧困が続いている。

 作物が獲れるうちは、それで食い繋いでいけるのだが、今年はそれも厳しい。一日二食の生活も一食半、もしくは一食と減り、一家丸ごと村外へ越していく家庭も少なくはなかった。黒死病が流布する前には百三十家庭、七百人強が住んでいたこの村も、今ではその半分以下にしかならない。越していった者も多いが、亡くなった者もそれなりの数がいた。

 今年八歳になったばかりのデイジーも、村の異変には気付いていた。去年の今頃は一緒に遊んでいた友達のレーナが、今年はいない。大人たちに訊いても、「遠くに行った」と曖昧な返事が返ってくるばかりで、その友達の両親はまだ村にいるにも関わらず、その子の姿だけ見ることがない。

 村の葬式は足腰の弱った老人も、首の座らない赤子も、老若男女問わずが参加すべきとされる行事の一つに数えられる。故人を悼み、傍らで酒盛りをしながら歌を唄う祭りのようなものだ。一昨年までは年に十数回は行われたが、今年はまだない。死者の数が多すぎるのだ。村全体をあげてのこととはいえ、そう頻繁に執り行われれば、ただでさえ脆弱な財政が根本から瓦解しかねない。だからここしばらくは、訃報も生前親しくしていた者や家庭にのみ伝えられ、彼らが彼らなりの餞(はなむけ)をするに任せられていた。

 しかしデイジーの友人が姿を消してからはそれもない。そのことが余計に、彼女の胸に澱となって募っていく。レーナと二人で見付けた村外れの林は、それでいて変わらずに無数のヒースを咲かせている。ラッパにも似た空色の花は、デイジーを迎え、久方振りの訪問者を歓迎するように、肌寒い風に揺れている。彼女はこの場所が好きだった。

 

 当局から連絡を受けた彼はその時、デイジーの村のほど近くを流れる川の畔に腰を下ろしていた。時間跳躍の際には、跳躍先の時代には過ぎた技術となるデバイスは持ち込めない。だから耳たぶとこめかみに埋め込まれた変換器(トランスライザー)から聞こえるノイズ混じりの音声を頼りにする他ない。

 もうじきこの村で鼠害が発生する。離れた街で黒死病の感染源となった鼠たちの第三世代だ。キャリアではないとはいえ、全く看過するわけにもいかない。黒死病よりも、鼠が元来持つ旺盛な食欲が問題となるのだ。冷夏で満足に収穫できなかった作物を鼠たちが食い荒らし、駆除に乗り出すも、村は飢餓状態に陥る。加えて街の財政難。支援を受けることも叶わず、流通する食材は一日分が村人の労働の一月分に相当する価格まで高騰している。

 人間は残酷な生き物だ。自然界のどの生物よりも。

 村民が生き残るために、口減らしが行われる。今から九ヶ月先のことだ。労働力にならない赤子は無作為に選ばれ、人柱として捧げられる。そして一年後には人口が今の更に半分にまで減り、同時に人売りが水面下で頻繁に行われる。現在も半年に一人の頻度で都会へと売られていく。

 売られた先は奴隷か、売春宿か、男は知らない。当局のデータベースにアクセスすれば判ることだが、あまり跳躍先に干渉し、情を重ねるのは得策ではないのだ。

 「お前はシュピーラーになれ」と、この時代へ跳ぶ前に上司に言われた。この地方の後世の言葉で演奏者を表す。同時に渡された唯一の武器は、動物の脳に干渉し極単純な命令だけを遂行させる催眠機。だが、催眠機をそのままの形で持ち込むことはできないために、装飾の施された細い角笛にも、原始的なクラリネットの前身にも見える楽器として姿を変えている。その音色を聴いた動物は――特に人間の場合――大脳の旧皮質を刺激され、本能に従うように彼の命令に追従するようになる。

 髪を乱す風に乗って、彼の時代では滅多に見ることのできないエリカのにおいが鼻腔をくすぐる。エリカだけではない。最早自生する花自体が珍しいのだ。時代の本流に流されるがままに、なるようになると任せた結果、世界は乱立する寒々しい摩天楼と、ひたすらに均された平坦なコンクリートの迷宮に成り果てた。時歴修正局は、その未来を変えるべく発足し、これまでも少なくない時代修正を成功させてきた。

 古くは恐竜を矛盾なく絶滅させ、紙の文化の伝番を促進し、オスマン帝国の隆盛を後押しした。事象そのものを改変することは許されない。予測できないカタストロフィを招く可能性があるからだ。だが、細かいポイントでなら、射出される大砲の軌道を修正するように、思わしい方向を導くことはできる。

 この時代での彼のミッションは――。

 

 デイジーは移民の家庭の末娘だった。上に二人兄がいて、今は二人とも遠くの街へ出稼ぎに出ている。兄妹仲はいい方だ。彼らが帰ってくると、デイジーは四六時中ついて回り、再び家を出るときには泣いてせがむのだ。行かないで、と。次男とは歳が十離れている。長男が十五になる年に、両親はこの地へ移った。だからデイジーにはここが生まれ故郷で、両親や兄たちが幼少期を過ごした国のにおいを知らない。海を渡ってきたとも聞くが、肝心の海をまだ見たこともない。ただぼんやりと、ものすごく遠い場所、くらいのイメージしか彼女にはわかない。デイジーもそれで納得していたし、彼女の親も取り立てて出身国のことを話そうとはしなかった。

 半月前に次男が帰宅したときには、夜中に両親と彼が怒鳴り合う声が聞こえた。寝ぼけ眼でダイニングに出ると苦し気に顔をしかめる父と泣いている母、肩で呼吸し拳を強く握る兄がいた。何が起きたのかも判らずに、デイジーは母に飛びついて抱きしめた。いつも彼女自身がそうしてもらっているように。

 「なあ、デイジー」と、重々しい空気の中、兄が口を開いた。

「ここを出て兄ちゃんと暮らさないか? 少し遠いところになるけど」

想像もしていなかった質問に、彼女は窮した。呆けた顔のあとに反芻し、しかし首は横に振られた。

「あたし、ここが好き。それに、あたしもいなくなったら、パパとママが寂しいでしょ?」

年端もいかない娘の言葉とは思えない慈愛に、母親は一層濃く涙を流した。無論、その雫を真意はデイジーには汲み取れない。

「こんな村よりも大きい街だ。見たこともないような建物や食べ物もたくさんある。一緒に来ないか?」

「ううん。あたしはここがいい。レーナだって帰ってくるかもしれないし」

妹の親友の名前に、兄も押し黙るしかなかった。「あの子は――」と一旦は口にしたが、結局続きは出てこなかった。

 その晩、四人は遅くまで火の点いていない暖炉の前で話をした。兄の膝に乗って、彼が語る出稼ぎ先の街の様子に思いを巡らせ、度々先の質問に頷きそうになる。でも、自分はここを離れてはいけない。何となくそんな気がしていた。

 街中を走る馬車も、屋台で時折出るという腸詰め(ヴルスト)も、この村では目にすることのないものだった。馬は知っている。だが馬が人を乗せる小部屋を引くという光景に重ねる像は浮かばなかった。ただ兄が、この村よりも遠くの街のことを好きになってしまったようで悲しくなってしまった。

 

 この話を、男は荒風吹く寒空の下で聞いていた。デイジーの発言を当局の調査部が拾い、男に転送している。男が現在脚を置く時代ではリアルタイムでも、俯瞰すれば彼の時代よりも過去のこと。人間を時間跳躍させる技術を持った者たちからすれば、特定の個人の発言を抽出するなど、蝋燭の火を吹き消すが如く易い仕事だ。

 ログを変換器(トランスライザー)に保存し、それが行われる時間に同時に再生される。体感的に対象の時代を詳細に把握するための手段の一つ。後の世で男は自身がどう呼ばれているか知っている。

 魔法使い(マグス)。悪魔。人攫い。厄災。同じ人間であるとすら思われていない。それを知っているからこそ、上層部から事例が出た際に承諾を渋っていた。誰も、好んでそうした後ろ指を差されたいわけではないからだ。その厄災とまで侮蔑される影に、しかし彼も知らない事実があった。この先、男が起こすとされている事件に埋もれて無数の児童失踪があった。黒死病の流布と同じように、特定の範囲を隠すために、より大きな事件を起こす。歴史に刻まれ流れを変革するのは後者だ。世間、社会に与える衝撃が大きな方だけが語り継がれ、影の変則事象は次第に目を向けられなくなる。つまり、この後よりも男にとってはデイジーこそが解決すべき問題だった。

 そう判っていながら、それでいて男は気乗りできなかった。寒さにかじかむ手で耳たぶを押し局へ通信を入れる。『なんだ』と迷惑そうな声が頭の中で響く。

「今回の任務、やはり私は賛同しかねます。少女は自分の境遇を憂いてはいない。むしろ好感触な理解を示しています。にも関わらず、少女を連れ出す必要があるのでしょうか」

『個人の感情の問題ではない。今の状況が続くのなら、我々とて無理に手を出す必要はない。だが、お前がいる地点から三日後、人買いが来るはずだ。そうなってしまえば今回もまた失敗に終わる。今ではない、我々が変えるべきは未来だ。当局の判断に従え』

強情な上の判断に、男は「了解」と答え通信を切った。

 やはり気は進まない。

 

 翌日の花畑に、デイジーは見慣れない男を見た。色彩豊かな服を身に着け、肩にかけた紐は長く細い角笛を吊るしている。花畑の特等席――中央の岩に腰をかけて風に揺れるエリカを見ていた。繰り返し二回、溜息を吐いた男の顔は着ている服とは裏腹に沈んだ色をしていた。

 彼の視界に入らないように静かに、姿勢を低くして十本のヒースを根本から折った。それぞれを結んで繋ぎ、一つの輪にしてから今度は男の背後に忍び寄る。まだ気付かれていない。そう感じたデイジーは音を立てないようゆっくりと、その輪を彼の頭に乗せた。

 レーナとよく作った花の冠。それを彼女は見ず知らずの男のために作ったのだ。不意のことに男が顔を上げたが、デイジーは屈託のない笑顔を、年相応の無垢なはにかみを見せていた。

「おじさん、どうしたの?」

男の頭に、少女の言葉が同時に反響した。機械の補助なしでは会話もできない、遥か二千年の壁を超えた両者の瞳が合った。

「ちょっと疲れただけだよ。これは君が?」

変換器(トランスライザー)が声帯に作用し、この時代の言葉がすんなりと発せられる。

 強くはない、しかし甘く心地の良いにおいがその冠から漂った。

「うん。おじさん、元気がなかったから。ここはね、あたしの大好きな場所だから、みんな笑っててほしいの」

デイジーだよ、と少女が男に自己紹介した。知っている。とも言えずに男は頷き、その小さい頭を撫でた。

「おじさんは、シュピーラーだ」

名前を明かさずに、そう返した。本名を言ったところで、彼女には覚えられない。だからこれで十分だと。一瞬、少女にその単語が理解できないことを忘れ、慌てて「演奏者だよ」と付け加えた。

「ならシュピーラー・イン・エリケン(ヒース畑の笛吹き)だね」

また弾けるような笑みをこぼした。

 彼女は笛吹きにたくさんのことを話した。歳からくる純真さだろうか。初対面の相手にもまったく警戒する素振りを見せず、友達――レーナの代わりとばかりに、男を信用していた。デイジーが話す内容を、笛吹きは全て事前に調べ上げ記憶していた。二人の兄が離れた街へ出稼ぎに出ていることも、それまで一緒に遊んでいたレーナが急にいなくなったことも、最近両親の仲が思わしくないことも。

 彼には言えなかった。事の真相は、今の彼女には残酷すぎる。

 局のデータベースによれば、レーナが買われたのは隣国の富豪、後に銀行王となる男を生み出す一族の先祖だった。どのような仕打ちを受けるかは、彼も耳を覆いたくなるほどの惨状としか言えない。兄らが住むハーメルンは男の次の目的地でもあった。彼ら今後、どういった状況を目の当たりにするかも、彼の口から告げられることはない。

 笛吹き男は、ただその肩から下げた笛を吹くだけだ。過ぎた干渉は罰則対象となってしまう。歴史はこのヒースの花ほど強くはない。何かの弾みに大きく湾曲する可能性を常に孕んでいる。このときも同じように。

 通信が入るとほぼ同時に、ヒース畑にデイジーの父親が顔を出した。まだ昼の盛りを超えた程度の時間、彼女を連れ出し夕餉を取るには早すぎる。だが、デイジーはその姿を一瞥して男の下を離れた。

「ばいばい、おじさん」

彼女の顔は始終変わらずに笑顔だった。

 通信を開いた途端に飛び込んだオペレーターの声は、さながら男を急かし、今すぐ動け、と言わんばかりの色が見えた。

『想定外のことが起きた。予定されていたよりも早く人買いが動いた。リミットは明日も明朝。お前も迅速に行動を開始してくれ』

それだけを捲し立て、通信は切断された。こちらの質問や確認は受け付けない、とする態度に状況の切迫を肌で感じる。笛を肩に掛け直し、男の父娘の後を追った。

 

 「こちらが娘のデイジーです」

父親が頭を下げるのに倣って娘をおずおずと会釈する。上質なベストを着た初老の男は、一目で村の人間でないと判る。手は土の染みがなく、革の靴も農作業に適さない。何より両親が警護を使っていることがその証拠だった。村人は誰もが気兼ねなく話をする。どれだけ歳が離れていても、村という狭い共同体の家族の如く、全員の立場は変わらないのだ。違うとすれば、村外からの訪問者に対してだけ。

「こんにちは、デイジー

差し出された手を促されるまま少女は握った。冷たく大きい手だった。

 その晩の夕餉には、これまで滅多に見ることのなかった料理が総出で並べられた。ジャガイモではなく小麦から作られたパン、鶏肉やチーズ。ミルクには蜂蜜が入っていた。

 ご馳走を前にして、デイジーはいつになく張り切って母親を手伝った。進んで皿を並べ、手も親から言われる前に洗い、すぐに自分の席に就いた。二人の兄がいない、しかし三人での食卓には置ききれないほどの料理。垂涎の面持ちで父親が食前の祈りの言葉を言い終えるのを待つ。だがいくら経っても、彼から祈りの言葉は出てこない。

 その代わりに「デイジー、食べなさい」と、柔く笑った父が言った。今日くらいはお腹いっぱい食べなさい、と。彼女の表情は一気に破顔し、大振りのパンをその小さな手で掴んだ。麦のにおいと柔らかな触感が広がり、「美味しい」と何度も何度も口にした。飲み込む間すら惜しく、行儀が悪いと判っていながら次から次へとご馳走を、まるで口という穴に放り込むように咥える。その食事中、両親の顔に浮かべられた笑顔にも気付かずに。

 

 少女の自宅は遅くまで灯りが点いていた。月も高い深夜に、村中でそこだけは人の気配を醸している。何かの金属が跳ねる音と共に、人の囁くような声が夜風に乗った。

 笛吹きにはその正体が見えていた。デイジーの両親と、昼に顔を出した先の人買いだ。局の見立てでは、奴が姿を見せるまでまだ二、三日の猶予があったはずだ。それも邂逅するのは昼ではなく、深夜のはず。変則事象が続いている。

 今この場で引き渡しが行われるのか。確かに少女とはいえ明快な意識を保っているうちよりも、睡眠中の方が運び易い。何処へ連れて行かれるにしろ、道中で目を覚ませばデイジーに助けを呼ぶことは不可能に近い。義憤に駆られて見ず知らずの田舎娘を人買いの下から救い出すほど、世間の人間は優しくはないのだから。

 一度は握りしめた笛を、しかし男は使わなかった。人買いがその場を去ったのだ、商品となるデイジーを連れ出さずに。局のログにもこの人買いの行動は記録されていない。

 未来という不確定要素はあくまで漸近率に基づいて計算され、そこにアクセスしているに過ぎない。デイジーという一人の少女を対象にするならまだしも、随伴する複数の変則事象の組み合わせに完全に対応できるわけはない。だからこそ、過去に干渉できるようになっても、跳躍士が必要なのだ。

 ここで笛を吹かなかったことを、上層部は咎めるかもしれない。だがそれも変則事象に左右される一過性に変わりはない。男は紐を肩に掛け直し、夜闇の下りたヒース畑に引き返した。

 

 まだ空が白み始めた早朝、初老の男は再びその家の扉を叩いた。三度のノックに続いて中から物音がするのを確認すると、扉から一歩下がり不敵な笑顔を浮かべる。両親に連れられて目をこする少女は、着崩した寝間着のまま、吹きすさぶ寒風に肩を震わせた。

「着替えさせた方がよかったですか?」

まるで娘の晴れ舞台でもあるように、母親は口を開く。よくもそんなことを気に掛ける余裕がある、と男は一瞥するもすぐに同じ笑顔を張り付けた。

「いえ、すぐに馬車に乗りますから」

男が手を引こうと少女の腕を掴む。あの冷たく大きな手に捕らわれ咄嗟に払おうとした彼女の腕を、男が放すことはない。

「この人と一緒に行きなさい」

助けを求められた父親は、残酷にも少女を突き放す。母親もその矮小な背を押し、救う素振り一つ見られなかった。

 デイジーは彼女なりに悟ったのだろう。この男について行けば、二度とこの地に戻ることはない。父とも母とも、そして二人の兄とも永遠に離れ離れになってしまうと。行先は判らない。でも帰ることも叶わない。

 平時、駄々をこねることの少ないデイジーは、全力で拒否を示した。足を突っ張り、掴まれた腕をがむしゃらに振って、男の手を叩き、引っ掻いた。それでも大人の男に対して、八歳の少女の力はあまりに乏しい。力は弱まるどころか、より一層強くなった。

「いいから来るんだ」

最早男の顔には怪しげな笑みもない。人攫いか、悪魔でもあるような形相で少女を睨み、思い切り引き寄せる。強大な力に引かれる度に、少女は態勢を崩し、だが何度でも足を止めて必死の抵抗を見せた。

 業を煮やした男が右手を振り上げたとき――。

 四人の間に甲高い笛の音が轟く。いつもデイジーが遊びに行くヒース畑の方角から高く、澄んだ音色が。

 直後、父親も母親も、人買いの身体までもが硬直した。全身が強張り、金縛りにでもあったかの如く、目だけを動かした。音色の元にはあの笛吹きがいた。

「おじさん! 助けて!」

 自由の利かなくなった人買いの手からデイジーは容易に抜け、彼に向って走る。鼻歌とスキップを携えて行き来した道が、果てしなく遠く、永遠に続く悪路のように感じられた。

 笛吹きはデイジーを抱き止め、しゃくり上げる彼女の頭を優しく撫でた。「もう大丈夫」慰めの言葉は、赤く痣の付いた細腕を包み込む。三人は憎々し気に笛吹きを睨んだが、口の筋肉も固まり、ただ荒くなった息が漏れる音ばかりが聞こえる。

 デイジーを抱き、笛吹きはもう一つだけ音を出した。必要なないかもしれない、と思いながら。それを聴いた彼女の身体も、目の前の三人と同じく一瞬は硬直したが、固まってしまうことはない。

「行こう、デイジー

「何処に行くの?」

声を震わせて、涙を拭う少女の頭を、笛吹きは再び撫でた。

「ここよりも、ずっといいところだよ」

一度頷き、彼の服の裾を掴んだまま、共に歩き始めた。ヒース畑の向こうを目指して。

 笛吹きがハーメルンへ到着する、十ヶ月前のことだった。