虚勢の銀貨

東村の日々の記録

私は変わりたくなかった。

 経済至上主義、金銭至上主義、この言葉を耳にし目にすると、うすら寒いものが込み上げてくる人が大半ではないだろうか。世の中、生きていく上で最も大切なものは金で、それ以外の人なり情なりは二の次三の次だ、とするものだ。

 

 金があれば幸せだろうか。金がなければ幸せではないのだろうか。

 少なくとも、私は前者には同意する。手垢のついた表現ではあるが、「金で買えないものはない」の言葉の通り、日本で暮らしていれば金で解決できない問題はほとんどないのではないか。物品の売買は言わずもがな、旅行で得られる体験や、金目当てであることを割り切れば、同性異性関わらず人の心も左右できる。

 

 そうできるのは何故なのか。現在の日本という社会が金銭価値を基盤に立っているからだ。労働問題云々以前に、金があることを前提に社会が構築されているからだ。だから社会から外れないよう、社会で優位に立てるよう、あの手この手を尽くして金銭を得ようとするのだ。

 社会での信用とは金のことだ。与信審査、などと漢字を並べているが、結局のところ「審査対象に金があるか、金を生み出す能力があるか」を見ているにすぎない。その人が嘘を吐かないだとか、頼まれごとは期日までに行うだとか、人と人が繋がる上で必要な情報ではなく、結局金出しマシーンとして有能かどうかしか見ていないのだ。

 

 だから、社会で生きる上で、少なくとも一般的な生活をする上で金以上に重要なファクターは存在していない。マザーテレサナイチンゲールよりも、目の前で人が死のうが殺されようが眉一つ動かさない冷血な金持ちの方が重宝されるのだ。

 

 では後者、「金がないと幸せではないのだろうか」こちらについて考えていこう。

 しかし、一つ問題がある。「金がない状態」というのが想像できないのだ。別段、私が幼少期から今に至るまで、ずっと長らく成金生活を続けてきたというわけではない。家があり、食べ物があり、服があり、電気水道ガスがあり、本があり、ゲームがあり、そうしたものは全て金がかかっている。そのため、金がない状態を考えようとすると、どうしても全裸でジャングルに佇むような情景になってしますのだ。

 だから逃げの手ではないが、生活するには困らないが、贅沢をできる余裕は全くない状態、を仮定して進めていこうと思う。

 

 私達、おそらく私のブログを読んでくれている方々は高校は卒業していると思う。高校時代を思い出して、自分は果たして裕福だっただろうか。一冊の本を買うのに小遣いを待ち、一杯のコーヒーの値段に悩み、ファストフードのポテトに躊躇しなかっただろうか。

 あの頃、多分私は今よりは幸せだったのだろうと思う。17歳なりに思い悩むことはあっただろうが、まだ己の未来を悲観してはいなかったのだろう。社会の一端も見えていなかった、と切ってしまえばそれまでだが、仮に当時、今と同じものを知っていても今ほどの無力感には苛まれていなかったはずだ。

 無論、これには個人差があるし、私が懐古主義で昔を美化しすぎている可能性も多いにある。各々違った悩みがあり、各々異なることに夢中になり、各々にしか見えていない世界があったはずだ。だが、これだけは断言できる。決して「金がないから幸せではない」などと考えてはいなかった。

 カフェに行けなければ放課後の教室で駄弁っていた。ボーリングやカラオケに行けなければ友人の家に集まっていた。寄り道することのない帰り道でも誰かとなら時間を忘れられた。そんな日があったはずだ。

 これこそ、私が言う金がない中での幸せだ。金と引き換えに得られる幸せがないのなら、ないなりにどうにかして作っていた。まだ作ることへの億劫さも面倒さも無縁の存在であった。

 

 いつからだろうか。金がなければ何もできないと思うようになってしまった。誰かと集まるにも、酒を飲みに行くくらいしか選べなくなってしまった。真夏、エアコンの無い部屋で汗をかきながらも楽しく喋れていたはずなのに。

 

ゲヘナより哀を込めて