虚勢の銀貨

東村の日々の記録

便利≠善

 今現在、私達は大量生産大量消費の世界に住んでいます。

 一人一人の意識がそうでなくても、日々廃棄になる食材や、在庫落ち、アウトレットとなって売られるものは数多く、その実態を全て把握することは難しいです。

 

 地産地消LOHAS、自家菜園が軽いブームになったのも、この大量生産大量消費のカウンターカルチャーとしてでしょう。誰もが感じていながら、否を唱える人が少なく、「必要なものを必要な分だけ」が真新しく映ったのでしょう。

 

 さてさて、唐突ではありますが、私は過程が好きです。何かが育つ過程や、壊れていく途中が好きです。時間が主軸となって、他のいろんなファクターが組み合わさった結果、想像もできない到達点へ至ることも少なくありません。ですが、これはやはりあまり理解されません。誰もが完成したものを欲しがる今の社会で、過程を重んじるのは少数派のようです。

 

 古着やヴィンテージなんてものは、その最たるものではないんでしょうか。ある程度傷んだ衣服は、それ自体が価値となり、つまりある種の到達点となっています。同じジャンルに廃墟探訪があると思います。廃墟も、建造物のなれの果てで、終末の姿を呈しているではありませんか。

 

 重ねて言いますが、私は別にそうした趣味を侮蔑するわけではなく、自分との比較のために例として挙げているだけです。

 

 過程を愛する、というのはある種、手間や不便を愛することと同義です。過程にあるものは、それが本来発揮すべき機能の面で、完成されたものには遠く及びません。自家菜園を想像してもらえれば理解が易いでしょう。本来食べるものとしての野菜に、わざわざ手間と時間を注いで育てることが過程です。完成されたものは既にスーパーに並んでいながら、種や苗から育てていく。小さな芽や実を結ぶ前の蔓は食べたところでほとんど腹は膨れません。結果だけを考えれば、全くの無駄でしょう。

 ですが、そうした植物を育てる人は完成を夢見ているか否かに関係なく、過程を重視もしくは愛しています。「こうした水やりのペースならどうだろう」「こんな肥料はどうか」などなど、試行錯誤を重ねています。勿論、職業としてそれを行っている人は別ですが、私が話に上げているのは、あくまで趣味の範囲内で行っている人です。

 「いや、俺はなった実を肴に酒を飲むのが楽しみなんだ」と言われる方もいるかもしれませんが、でしたら何故育てるのでしょう。「手塩にかけた」なんてことばがありますが、仮に種を撒くだけで、何もせず翌日には実をならせるものがあったとしましょう。その場合、変わらずに育てて、それまでと同じ感動を味わえるでしょうか。

 育てる人は一片の漏れもなく、その人なりの形で過程を、過程で生じる不便を愛しているのです。

 

 さてさて、不便を愛するとはどういうことか、ここで私の解釈を書いていきます。

 不便にはいろんな形があります。端的に代表格をあらわすとしたらゴールまでの回り道でしょう。バイクで攻める峠のコーナーのようなものです。最近バイクに乗っているため、どうしてもそうした例が多くなりがちですがご容赦ください。バイクに乗っていない人は車でも自転車でも構いません、通行帯が片側一車線で歩道も分離帯もない、見通しの悪い曲がり角を想像してください。

 目的を達成するためだけなら、わざわざそんな道を通らずに、山を貫通するトンネルを通ればいいだけです。迂回して峠道を走るのは過程と不便が好きな人だけです。このコーナリングの際に、各々の楽しみ方が現れてきます。①単純にコーナーを回るのが好きな人、②ゆっくりと周りの風景を見ながら走りたい人(私はこのタイプです)、③自分のスキルを磨くためにシビアに攻めてタイムを上げようとする人。

 

 先の自家菜園の例に当てはめると、①は育てる行為そのものが好きな人です。②は植物が育っていくさまが好きで、成長記録とかを取るタイプの人ですね。③はより効率的に、どの肥料が、どの日当たりスポットが、と研究するタイプの人です。

 どれもこれも、到達点が全ての合理主義者からすれば時間を食うだけの無駄な行為です。しかし、私を含め、過程と不便を愛する人にはそんなことはどうでもいいのです。

 

 合理主義者と対比して過程論者とでも呼びましょうか。過程論者は、不便とされることを不便と思っていません。鈍行好きな人は、鈍行のゆっくりした速度が好きで快速と比較したときの不便なんて考慮していませんし、車が好きな人は自分で洗車したりメンテナンスしたりするのを厭わず、裁縫好きな人は自分が刺す針の一つ一つにささやかな幸福を覚えているでしょう。

 

 それに、合理主義者では見えない視点から世界を見ることができます。新幹線や飛行機ばかりを使って旅行する人は、その道程の山や沿線の街並みをしかと見ることはないでしょう。生活の動脈となる電車からの街も、そこで暮らす人々の様子も、山間の見事な新緑も、峠の川沿いに咲く花も、季節ごとに顔を変える街も自然も。

 

 前を見て、行き先を急ぐのは悪いことではありません。

 ですが、そんな中で少しだけ、ほんの少しだけ立ち止まって足元を見るのもいいのではないでしょうか。100円落ちてるかもしれませんしね。

 

 過程論者を標榜する東村は、これからも不便なことを続けていくでしょう。

 こちら側でお待ちしています。

 

 ゲヘナより愛を込めて