虚勢の銀貨

東村の日々の記録

悩むな、考えよ

 哲学、なんて言葉が市民権を持ち始めたのはいつからでしょうか。

 古代のPhilosophiaについて私見をいうのではなく、私達一般市民が当たり前のように使い始めたのはいつからだろう、ということです。

 

 でもまず、そもそも哲学とはなんでしょうか。字面を見ると〈折+口〉ですが、〈折〉自体には「オノを持ってばらばらにする」という字義があります。それがクチを土台にしているのですから、「言葉で道理を明らかにする」という意味です。まさか噛み付いて物理的にばらばらにするわけじゃありませんしね。ただ、この「哲学」なる言葉も、明治初期に西周によって翻訳された造語にすぎません。

 なら、更にその前、Philosohiaなる頃の哲学とはなんだったのでしょうか。

 恐らく、誰もが名前を知る哲学者のソクラテス、彼が古代ギリシア哲学(哲学発祥の地)の中で最も名が通っているのは言うまでもありません。彼の考えでも有名なのは「無知の知」でしょう。議論が分かれかねないので詳しくは避けますが、要は「突き詰めたら私達は何も分かっていない」ということです。彼の頃から哲学といえば、所謂形而上学、「人間とは何か」「心とは何か」こういった概念的なことを首題に上げていました。

 恐らく多くの人がここをボトルネックに、「哲学=概念的なもの」というイメージを持たれるのでしょう。ですが、それが哲学の本質ではありません。哲学の本質は「疑問を持つこと」です。疑問を持って、それについて思索を巡らせること。それこそが哲学です。

 

 元々の哲学は「地球はどんな形をしているんだろう」「空はなんで青いんだろう」「岩はなんで硬いんだろう」そんなレベルでした。別にこれが程度が低いなんて話ではありません。そうした当たり前の疑問が出発点だった、というだけの話です。

 ただソクラテス達は、「空が青いと感じる、その主体としての私ってなんだ」という方向へ進んでいきました。当然と言えば当然の流れですね。カレー粉の味を知らなければカレーは作れないんですから。

 それから時代は進むにつれ、「私とはなんだ」と考える人は少なくなっていきました。「私は私だ」と、そんなトートロジーで納得できてしまう人が増えたのか、そんなことを考える時間がなくなってしまったのか、それは定かではありません。

 一方で「何故空は青いのか」の疑問は徐々に間口を広くしていきました。何故なら、その答えは「私とは」のような観測者によって答えが異なるものではなく、数値化されて万人が納得できる答えが出せる疑問だったからです。この疑問の名前を、皆さんはもう想像が付きますね。そう、〈科学〉です。

 

 科学が科学として認められ始めてから、哲学とは明確に線引きがなされるようになりました。元々は「疑問を持つこと」という共通の母を持ちながら、人間を主体として〈外に向いた疑問=科学〉、〈内に向いた疑問=哲学〉となっていきます。

 このブログを読んでくれている方なら、私が何を言いたいのかなんとなく予想がつくのではないでしょうか。私が今回言いたいのは、「哲学が哲学でなくなってきている」ということです。

 

 さあ、ここで今回の冒頭に戻ってみましょう。「哲学、なんて言葉が市民権を持ち始めたのはいつからでしょうか」。ここで市民権を得ているのは、純粋な哲学ではありません。そもそも、内に向いた疑問の顕現である哲学が、市民権のような共通意識を持って表出することなんてありえないのです。個人の中で完結しうるものであるからこそ、哲学の体をなしているのです。恋人の頭を撫でる瞬間に〈愛情〉と名付けたとして、その時に発生する愛情ホルモンのオキシトシンや、手のひらが頭蓋を押す圧力を取り出して再現できたとして、それは決して愛情ではないように、個人の内に向いたものを個人の外に出してしまったらそれはもう霧散してしまうのです。

 そんな不純な哲学が、今現在私達の世界に溢れています。「社会哲学」「企業哲学」「これが俺の哲学」なんて、勘違いも甚だしいですね。社会哲学は、社会が主体となって何がしかの価値を判断したり、社会とは何かを考え始めたとき、それは哲学ではありません。道徳です。マクロに薄められた個人個人の総意と規範を、日本人は道徳と名付けたじゃありませんか。何故今更名前を変える必要があるのでしょう。企業哲学についても、その会社の在り方や絶対に引けないラインを定めたものを企業哲学なんて呼んでいるようですが、それは企業哲学ではなく企業理念です。もしくは風習や習慣、風潮といったものです。哲学ではありません。「これが俺の哲学」なんて言葉は言語道断です。世が世で、私にそれができれば今頃発言者全員叩き斬ってます。この場合の哲学は、やり方や流儀を示したもので、断固として哲学ではありません。

 

 そもそも、哲学に「流儀」なんて意味はありませんでした。あったのは先述の通り、「疑問を持つこと」それだけです。私がこう言うと、ほとんど確実に「言葉は時代と共に変わっていくものだから、ガタガタ言うのはナンセンス」なんて反論がきます。

 確かに言葉の意味は変わっていきます。それは抗いようのない事実ですし、私はそれを否定する気もありません。ですが、意味が変わったから、また意味が変わるからといって、言葉を弄していいわけではありません。「言葉の変化を受け入れてそれに従え」、と言うのは、「人間いつかは死ぬんだから、今殺されてもいいよな」くらいの暴論です。知っていて新しい意味でも使うことと、原義を知らずにそのままいくこと、は天と地を超えた差があります。

 

 少なくとも、ツイッターから私のブログへ行きついた人は哲学をする力がある人達です。私一人が声を上げたところで、多勢に無勢、現代の圧力に穴を空けることは敵いません。ですが、せめて哲学ができる人には、哲学の意味を知っていて欲しい、なんてエゴを私は振り回すのです。

 

ゲヘナより哀を込めて