虚勢の銀貨

東村の日々の記録

暇がないならケーキを食べればいいじゃない

 「貧乏暇なし」なんて言葉があります。

 故事成語なので解釈が分かれますが、ここではそのまま「金がないと、それを稼ぐために奔走して、暇がなくなってしまう」という意味としましょう。

 私はね、この言葉が現代の日本人のほとんどに当てはまるんじゃないかと思うんです。

 

 別に、今の国の財政だの、市場の経済状況などにがたがたいうつもりはありません。それについて書いていたら、いつまで経っても終わりませんし。

 経済学を専攻したわけでもないので、一市民の私の周りや、私が関知しうる人達を例に挙げることをご容赦ください。

 

 読者の方々はなんとなく気付いていると思いますが、私は基本的に大勢アンチです。だから、サラリーマンなるものが嫌いです。ここ数年でやっとブラック企業だの、サービス残業だのが問題になり始めましたが、それでも現在も横行しているのは事実です。また、最低限の生活を保障するものとして生活保護があります。ざっと調べましたが、都内の一人暮らしでの生活保護支給額は13万ほどだそうです(年齢や住む場所によって変動があるので、あくまで例です)。この中には家賃補助の5万が含まれるので残りは8万。公共料金で1万、ネット等通信費で月1万だとして、残りは6万円ですね。その6万の中から、日々の生活品や食費、医薬品等を買えばほとんど残らないでしょう。

 

 自由に使える金が3万と仮定した場合、それで人間的な生活が営める、と断言できるでしょうか。勿論、人によりお金のかからない趣味があったり、日がな一日窓の外を見ているだけで十分という方もいるでしょう。ですが、思い出してください。これは一人暮らしの人のデータです。私も一人暮らしなので分かりますが、誰とも話をしない日々は、非常に精神を摩耗させます。一日が終わるだけで言いようのない焦燥感と罪悪感が肩にのしかかってくるんです。でも、残り3万で人と話す場をどれだけ持てるでしょうか。

 綺麗なお姉ちゃんが世間話をしてくれる店に行け、というのではありあせん。完全に無料で全く一銭たりとも消費活動をしない友人関係を築いてる人が一体どれだけいるのでしょうか。お喋りにカフェに入るのも、ちょっと夕飯に行くのも、何かしらの経済活動が発生します。それに、残り少ないお金で一体どれだけ対応できるでしょう。

 

 断っておきますが、私は生活保護の受給額に何か言いたいわけではありません。

 皆さんも知っている通り、我々日本人は憲法にて「健康で文化的な最低限度の暮らし」を送る権利を保障されています。ですが、現行の社会はこの「文化的な」という部分をあまりに軽視してはいないでしょうか。

 

 文化的とは何か。諸説ありますが、私は「娯楽を持てる環境にあること」だと思っています。

 歴史の勉強をする際に「通史」と「文化史」で分かれていませんでしたか? 戦争や政権交代は歴史の動きの中で外すことのできないものだから通史。一方の文化史は、その当時の暮らしぶりや美術、芸術、つまりは娯楽を取り扱っていました。だから、私は文化的=娯楽を享受できること、だと考えています。

 

 さて、話を戻しましょう。

 上記のことを前提とした場合、今の世間の暮らしぶりは文化的でしょうか。皆さんの会社にこういう人はいないでしょうか。「休日にやることないから仕事をする」ワーカーホリックと呼ばれる症状に片足を突っ込んでいますが、その実、趣味や娯楽をきちんと自分の中に明確に持っている人は、本当にわずかなのではないかと思うのです。

 

 娯楽を享受するにはある程度の金銭が必要です。更に何よりも時間が必要です。そのどちらが欠けても成り立ちませんが、現代は「どちらかを満たしていれば十分だろう」とする考えが蔓延っています。

 また、日本人の気質かもしれませんが、暇を極端に避けるきらいがありはしませんか? 隙間時間を見つけてはケータイをいじり、休日には無理に予定を入れようとし、暇を暇として享受しないように努めているのではないかと思います。

 

 暇があってもやることがない。暇は暇だから嫌い。そんなことをたまに耳にします。暇を潰すことがイコール悪いことだとは言いません。ですが、私には、昨今の暇の潰し方があまりに漫然としているのではないか、と感じられてしまうのです。

 今や、スマホ一つあれば一日中時間を浪費することも可能になりました。爆速のネット回線と、数えきれないゲームアプリ、SNS掲示板等々、何もかも時間を延々消費できるコンテンツです。

 これらを使うな、と言うわけではなく、与えられるものを、まるで雛鳥のように口を開けてまっているだけではないか、そのことを懸念しています。他者が作ったものを鑑賞することはとても素晴らしいことですし、私も作家志望のはしくれとして余念を欠かしません。ですが、消費行動があまりに当たり前になってしまうと、自分の手元に何もかもが供給させることが当然となってしまうと、自分から探しに行く能力を失ってしまいます。人工孵化させた鳥が野生で生きられないように。

 この現象、皆さんは無縁かと思っているかもしれませんが、既に現れています。「小説家になろう」、「なろう」と略される小説投稿サイトですが、これのランキングにノミネートされる作品は変わり映えしません。多少の細部が異なっても、大筋やストーリーラインは変わらないのです。以前この現象について考えてみました。異世界転生+主人公無双ものが流行った時期です。

 

 人にとって、どんな作品が面白いかは勿論ばらばらです。各個人の考えがあり、価値観があり、好みがあり、思想があり、理想があります。実際のところ、現代を生きる主人公が異世界で活躍する話は昔から数多くあります。『ナルニア国物語』や『十二国記』、『犬夜叉』などがあげられるでしょう。ブームというものは一定の周期で回るものなので、投稿サイトでこれらに倣った作品が出回るのは想像に難くありません。

 ですが、時期が時期なだけありました。此度のブームはスマホが、日本のネット環境が扱える人口のほぼ全てに普及した時代に起こり、私が危惧する〈雛鳥化〉が十二分に進んでいました。雛鳥に異世界転生+主人公無双の痛快活劇を与えると、それを十全に楽しんだ彼らはほぼ同じものを求めます。見たことない敵、聞いたことのない呪文が登場してこようとも、大筋が変わっては似たものではなくなります。

 その結果、同じような作品ばかりが出回り、「小説投稿サイト=異世界転生ものを載せる場所」となるのです。私の言い分はいささか過剰だと思いますか? でもですね、異世界もの全盛の時に、主人公が苦悩するシーンや、苦戦、敗北、挫折を経験する場面があるとコメント欄で総叩きにあったいたのです。実際に私もそうした場面は何度も見ました。

 ヒロインが主人公に崇拝と敬愛の念を抱かず、主人公が成長するための挫折に繋がる強敵が現れ、異世界の住人は主人公よりも頭が良く、などなど、こうした要素が入っている作品は排斥さえていきました。

 雛鳥フィルターを何重にも通したアイディアや象徴は、肝心の部分を漉しとられ、結果のみが残りこんなにも歪になってしまいました。

 

 これはあくまで一例です。

 私が文学畑にいるために、この問題に気付けただけで、実際にはもっと遥かに多くの雛鳥化現象があるでしょう。

 

 さあ、ここまでの話を総括していきます。

 確か、ことの始まりは「貧乏暇なし」でしたね。暇のない中、細々手に入りやすいものでその暇を埋めようとすると、どうしても手軽なものに頼り切ってしまい、気付かぬうちに雛鳥化が進んでいきます。雛鳥の群れに食い尽くされたコンテンツが復旧が難しくなることは見ていれば分かると思います。

 

 皆さん、各々愛すべきコンテンツがあるでしょう。

 それを今後も健全に守っていくためには、貧乏暇なしの中、多少の無理と、ほんの少しの時間を使って、自分から次なるものの探求を止めないでください。時間も人も、ほんの一瞬も立ち止まれないように、コンテンツを探る旅路で足を止めないでください。命ない作品の心を殺すのは、堕落でも撤退でもなく、停滞です。

 

 ゲヘナより哀を込めて。