虚勢の銀貨

東村の日々の記録

青い血、赤い鱗

 厳しい冬に人は飢え、しかしそれは人魚にも降りかかる災難であることに変わりはなかった。重い鉛色をした海と、灰神楽の方が美しいとさえ言える濁った空は彼女の母が死んでから今日まで、延々と続いている。

 「人間の住む街は美しいものだよ」

彼女の脳裏に母親の言葉が泡沫にこだました。

「わたしたち人魚は、魚よりも、海獣よりも、ずっと人間に近いんだ。

 それに人間には、魚や獣にはない人情がある。とても優しくて、他のものを大切に思いやる気持ちのことだよ。そんな人間たちは、きっとわたしたち人魚を無下にしたりはしないだろう。

 わたしはもう、多分この海から離れられない。それはとても寂しいことだけれど、お前や、これから産まれるお前の子供にはまだまだたっぷりと時間がある。

こんな寂しいところで生きてはいけないよ。人間ならきっと良くしてくださる。きっと一緒に暮らせるはずだ」

 小さい頃から何度も、そう言い聞かせられてきた。事実、人間の街に揺れる灯りは何よりも優しくて、そして切なかった。太陽ほど乱暴でも、月ほど冷たくもない光が、ゆらり、ゆらり、と軒先に漂う。彼女もその美しさに、何度も心を打たれた。

 いつかあそこへ。

 いつかあの光の下へ。

 だが、身重であった彼女は浜辺には行かず、頑健な岩の上に休んで、物思いに耽るのが常だった。

 

 臨月にも関わらず、冬の海には魚が少なかったせいで、彼女の体調は悪くなる一方だった。もう、ひと月はまともに何も口に入れていない。

 とうとう尾の鱗が剥がれ、波がその傷口から流れる血をさらうようになると、彼女の母は思いつめた面持ちで自らの尾を半分、切り取った。夜の海よりも真っ青な血が止めどなく溢れても、母は笑った。

「わたしはこれから人間のところへ行ってくるよ。きっとお前を助けてくださる。それまでは、すまないけど、これを食べていなさい。妊娠(みもち)ではまともに泳げまい。大人しく待っていなさい」

 しかし、母は戻らなかった。

 重い体で、母の尾を持って必死に跡を追った。

 海の向こうから陽が昇る頃、母は海岸で漁の準備をしている二人の人間に声をかけた。

 母の言うことを守るべきだった。

 二人は海面から半身を出した母を、長い銛で突き刺した。貫かれた切っ先から滴る母の血は、夜明けの海よりも澄んだ青だった。

 

 海岸の港町、海の神を祀った小さな宮のある山の麓に、さびれた蝋燭屋が一件、老夫婦に営まれている。宮への参拝客はここで蝋燭を買い、山を登っていく。

 店の老夫人は参拝の帰りに、石段の中腹、その繁みの陰から微かな泣き声を聞いた。人の声よりもずっと穏やかで、ずっと通る声につられるようにそちらへ寄ると、青い紋様の衣に包まれた赤子が、一人、愛らしい瞳を潤ませて老夫人を見つめた。

「どうしてこんなところに――。可哀想に」

その手には菖蒲の花が握られていた。

 老夫人はその子を家に連れ帰り、夫に一部始終を話して、育てようと持ち掛けた。

「わたしたちには子供をおりませんし、きっと神様が授けてくださったのでしょう。捨て子ではあるけれど、大切に育てようじゃありませんか」

その話を聞いた夫は二つ返事で頷いて、

「それは確かに、お前の言う通りだ。神様からの授かりものなら、大切に育てなければ罰が当たる。おぉ、よしよし」

と言って、赤子の頭を撫でた。

 そのとき、赤子を包んでいた衣がはらりとはだけ、その下半身が露わになった。

「なんと、これは――」

その胴から下には小さな脚ではなく、魚と同じ豊かな鱗と尾があった。

「これは、人間の子じゃあ、ないが」

「わたしもそう思います。でも、人の子でなくても、なんとも可愛らしい女の子ではありませんか。姿形は関係ありませんよ」

一度は驚き目を剥いた夫も、妻のその言葉に咳払いを一つして賛同した。

「いいとも、なんでも構わない。神様の贈りものなら、大事にして育てることに変わりはないのだからな」

 

 人魚の成長は目を見張るほど早かった。僅か三年足らずで夫人と同じ背丈にまで達し、やはり理知的な容貌と、見るものを唸らせる見事な所作を身に付けた。名前は「あやめ」といった。彼女が拾われたときに握っていた花から名前が取られ、そのときから二ヶ月もすれば言葉を話せるようになっていた。

 きちんと単衣(ひとえ)を羽織り、帯は三年前に包まれていた衣だった。「この子の本当の親の最後の優しさかもしれない。無下に捨ててしまうのはあまりに酷だ」と老夫婦が残しておいてくれたのだ。

 あるとき、蝋燭職人をしている老翁に、あやめは尋ねた。

「おじいさま。わたしも何かしとうございます。何か、お手伝いがしたいのです」

「あやめや。お前はわしら老人にはできすぎたほど良い娘だ。わしらはお前がいてくれるだけで十二分に助かっているのだが、何かしたいというなら、それを断ることもあるまい。お前がしたいようにしてくれていいよ」

 彼女はしばらく考えこんでから、「では、おじいさまが作る蝋燭に絵が描きとうございます。わたしに蝋燭作りを一から覚えさせるのは、きっと骨が折れるでしょう。ですが絵なら、きっとわたしにも描けると思うのです」

 それなら、と老翁は早速、作り終えた蝋燭をあやめに手渡し、老媼に筆を持ってくるよう告げた。

 あやめの描く絵は、それはそれは秀作だった。誰から聞いたわけでも、習ったわけでもないのに、巧みに線を描き、その一つ一つはさながら水底を漂う海藻のようで、それを見て心を奪われぬものはいなかった。

 あやめの描いた絵蝋燭を求めて、その店に足を運ぶ客は増え、まことしやかに語られる噂まで流れ始めた。

「この絵蝋燭を宮に灯すと、海で事故に遭うことはない」と。

「海の神様を祀ったお宮だもの。これだけ綺麗な蝋燭を供えたら、神様もきっと喜んでくださるはずだろう」

「やはりお前は、わしらにとって、神様がくださった贈り物だよ」

 絵蝋燭の噂は遠くの村にまで伝わり、山を越えて安全祈願のために買い求めに来る漁師も増えた。中には「この絵を描いた娘に会わせてほしい」と頼むものも少なくなかったが、「うちの娘は、大層な恥ずかしがりやで」と老媼は断っていた。絵描きの娘が人魚であるということは、老翁と老媼以外の間では、ずっと知られていなかった。

 店先に並ぶ長蛇の列に応えるために、老翁は寝食も惜しんで蝋燭を作り続けた。白く、滑らかで、むらの欠片も見つからない蝋燭に、あやめが丹精な絵を描いていく。

 

 ひとつ、ぬりてはおやのため

 

 いつしか、蝋燭を塗っているあやめの頭の中で誰かが囁き始めた。

 

 ふたつ、ぬりてはうみのため

 

 それでもあやめは絵を描くことをやめようとは、露ほどにも思わなかった。「こんな、人間並みでない自分をも、よく育てて、可愛がってくださった恩を忘れてはならない」。夜な夜な彼女はそう呟いた。頭の中の声も、手の痛みも気にはならなかった。これが自分にできる一番の恩返しだと信じていたから。

 いつまで経っても、蝋燭を求める人は減らなかった。山の上の宮には、いつも火が灯り、老媼があやめを拾った石段を怪しく照らしたこともあった。夜漁の船が、うねる海からその灯りを見たという声も聞こえてくる始末。

 蝋燭は売れたが、次第に、その蝋燭に絵を描くあやめを気に掛けるものは少なくなっていった。

 

 みっつ、ぬりてはうみごのため

 

 蝋燭を塗るための絵の具はすぐになくなった。まだ最初の頃は、仕事の合間を見て老媼が離れた町まで買いに行ったが、それが一年も過ぎる頃になると、その手間を惜しむようになった。

 あやめは何度も頼みにいった。ときに老翁に。ときに老媼に。しかし、二人とも各々の仕事で忙しく、あやめの頼みを聞いてやれるほど、時間を取れるものでもなかった。仕様がなく、彼女はすり鉢に自分の鱗を一枚落として、それを粉になるまで細かく、細かく砕いた。小さな破片が割れる音を聞くたびに、鱗を剥がした部分が鋭く傷んだ。

 赤い鱗の下には、人間とそうは変わらない薄紅がかった無垢の肌が見えていた。

 そこから、また客足は伸びるようになった。

 

 よっつ、ぬりてはいきるため

 

 あやめが鱗の塗り粉で描いた蝋燭は盛況だった。艶やかな赤は、光の具合によってはどんな色にも輝き、灯る火を受けて、その紋様はまるで胎児のように揺らめいた。

 絵描きや塗り師が、その鮮やかな朱に魅せられて、「あやめの使う絵の具を教えて欲しい」と頼んできたこともある。老翁も老媼も、それまで購入していた店の名前を教えたが、果たしてそれはあやめが描くような色は出せなかった。

 彼女が使う塗り粉をそのまま売ったこともあったが、他の絵師が筆をそこへ下ろした途端に輝きは失せ、くすんだ海と同じ鉛色になってしまった。その話を聞いて老夫婦はほくそ笑んでいた。「やはり、人魚の子が扱う品だ。人間に扱えるはずがあろうか」。二人は気付いていた。もうどちらも、あやめに絵の具を買い与えていないことに。

 だのにあやめは、どこからか塗り粉を調達して、蝋燭に絵を描き続けていた。二人は全く意に介していなかった。たとえどんな朱を使っていても、蝋燭が売れさえすればよかった。

 

 いつつ、ぬりてはあやまちて

 

 尾の鱗は、もう半分を塗り粉へと変えてしまっていた。人魚の鱗は、二度は生えない。美しかった彼女の尾も、既に人とは変わらない肌の色をした部分が多く見られた。

 老夫婦の暮らしぶりは豊かになった。食卓に並ぶものは、雑穀から真っ白な純米に変わり、衣替えの時期になれば、服を新調した。彼らには子供がいなかったために、蝋燭の収益は湯水のように使われた。

 でも、あやめの着物の端々がほつれても、彼女が持っている着物はそれ一着だけだった。時折、老媼の古くなった服の切れ端でほつれを直し、慣れない手付きで精一杯針を動かした。

 四六時中、絵筆を握った手は、針ほど細いものを握ってもうまく動いてはくれない。指先を裁縫針で突き刺して、一筋の流れる血を見て、自分の血が真紅ではなく、海のような群青をしていると知って、涙をこぼすこともあった。そうでありながらも、あやめは文句の一つも口に出したことはない。

「人間でもないわたしを、可愛がってくださっている方々に、一体何の恨みがあろうか。感謝こそすれ、不平を口に出していいはずもない」

 夜な夜な、遠くにたゆたう海の思いを馳せて、胸が締め付けられることもないわけではない。だのに、それよりも、自分を育ててくれた老夫婦への感謝が強かった。

 湧き起こる郷愁は、絵筆を動かすことで埋めていた。

 

 むっつ、ぬりてはたちぬため

 

 毎日毎夜、蝋燭を塗っていると、とうとう筆を握れぬほどに手が痛むようになった。

虫が指先から這い上がってくるように、じわりじわりと痛み出し、骨を砕かれるような重い力で抑え込まれて、片腕は上げることすらままならなくなってしまった。

 しかして、あやめは、燭台に蝋燭を差して、元々それを握っていた逆の手で絵筆を握った。最初はあやふやで、線がずれてしまい、老媼に叱責を受けた。「おじいさまの仕事を、無駄にしてしまった」と、老媼以上に自身を責めた。

 逆手でも、二十も描くようになると、次第に要領を得て、以前と変わらずに丹精に描けるようになった。

 それからあやめは、絵塗りに一層精を出すようになった。「わたしの至らなさのせいで、お二人の仕事に穴を空けてしまった。わたしのせいで、わたしのせいで――」。まともに睡眠も取らず、ふと思い出したときに、老媼が部屋の前に置く質素な食事を摂り、夜は月明りと、老翁が作り損じた蝋燭を灯して、白い芯を紅く塗り上げた。

 尾の鱗は、もう指折り数えるほどにまで少なくなってしまっていた。

 

 ななつ、ぬりてはおもかれて

 

 あるとき、老夫婦の店に香具師が来た。南の国から、遠路はるばるこの北の地にまで足を延ばして、金になりそうな物珍しいものを探していた。男は何処で聞いたのか、はたまた工房をちらとでも覗いたのか、蝋燭塗りの娘が人間の子ではないと見抜いていた。世にも珍しい人魚の娘で、しかも容姿は淡麗、絵描きの才があるとなれば、これは手に入れぬ道理もなく、男は老夫婦に話を持ち掛けた。

 香具師が提示したのは、老夫婦が一年、丸々働いた分ほどもある金額だが、彼らは首を縦に振りはしなかった。「神様が授けてくださった」という謳い文句は、とうの昔に、頭の片隅から退いていたが、二人は、もっと値を上げられると踏み、自分らが以下にあやめを愛し、大切に、家族として扱っているかを熱弁した。

「娘を、そんな二束三文で売れるはずがなかろう。帰ってくれ!」

老翁は去った香具師の背に塩を投げつけた。

 だが、翌日も香具師はやって来た。その翌日も、そのまた翌日も。客がいなくなる夕刻を狙って、毎度毎度同じ時間に、そしして同じ話を持ち掛けた。

老夫婦は、元は徐々に上げられるであろう金額に、頃合いを見て頷くつもりであった。対価が、およそ二年分にもなればよい、と。自身らでもがめついとは思っていたが、この先、まだどれほど長く生きるかもわからない。それに、金はあるに越したことはないのだ。多ければ多いほどいい。しかし、香具師はそれ以上、釣り上げることはなかった。代わりにこんな話を、老夫婦に聞かせた。

 「人魚が不吉の象徴で、災いをもたらすことは知っておろう。最初は小さなものから、時に、人の生までも奪うそうだ。かの蛭子神が半人半獣だったように、満足に一つの身体を持たぬのは、神に忌み嫌われ、その身に呪いを受けている証拠だ。早いうちに手放さないと、今にどんな災難が降りかかるやも知れぬ」

 それがまったくの出鱈目であることは、二人にはわからなかった。香具師があまり熱心に話し、ここを訪ねるのもこれが最後と言うので、堪らず二人は、約一年半の金であやめを引き渡すことに同意した。

 月も落ちようとする、その日の晩に、あやめはそのことを告げられた。この地を離れ、遠く、南の国へ売られていく。育ててくれた老夫婦が手にするのは、幾何かの金で、まるで彼女にはそれだけの価値しかない、と言われているようだった。

 あやめは老翁の足に縋りつき、泣いて頼んだ。

「わたしめを、いずこかへとお売りになる、なんてことはやめてくださいまし。これまで以上に素晴らしい絵も描きます。もし、ここを出でいけ、と仰るのなら、その通りにいたします。ですから、何処ともわからぬ場所へ送りつけるなど――」

 乞い願うあやめを、しかし老翁は足蹴にした。香具師の話を聞き、呪いを受けた身だと信じてから、美しいあやめの四肢は、醜く邪なものに見えてしまっていた。初めから魔の顔をして近付いて来るものはいない。一人娘であったはずの、人魚のあやめは、最早厄を乗せてくる妖魔にしか感じられなかった。蝋燭の塗るために剥がした鱗の痕は、献身の証にはならなかった。

 

 やっつ、ぬりてはおのがため

 

 それから、あやめは手を休めることもしなかった。

 二人が目を覚ましてくれると信じて、陽が出ているうちはさることながら、夜通し蝋燭に絵を描き続けた。筆は、穂首が割れ、軸はあやめが握る形に擦り減ってひびまで入っていた。だのに、彼女はその手を止めることはない。

 最後の鱗をすり鉢に入れたとき、とうとう筆は折れてしまった。豊かだった穂首の毛は、今やあやめの尾を映したように無残に数が減り、握り続けていた軸には垢を血が刷り込まれていた。

 それを、老夫婦に告げることも叶わず、あやめは鱗を粉に指を浸けた。筆ほど繊細な絵は潰れ、ただ真っ赤な、艶やかな蝋燭にしかならなかった。何層にも塗り重ね、そこで作ったばかりの赤い塗り粉はなくなってしまった。あやめの細指でも、塗ってしまえば一本分にしかならなかったのだろう。

 真っ赤に染まった指と、真紅に塗り上げられた蝋燭。

 工房の小窓から朝日が差し、同時に入り江に合わせてうねる沿路を、一台の馬車が曲がって来るのが見えた。

 あやめは泣いた。声を殺して、袖を涙で濡らした。あの馬車の荷台には檻が備え付けられていた――あやめを入れるための檻が。人魚は確かに人間ではない。でも、他の魚や海獣よりも、ずっと人間に近く、いや、近いはずだった。だから、この老夫婦に育ててもらえたし、娘として可愛がってもらえたはずだった。

 あやめの悲痛な嗚咽を叩き潰すように、部屋の襖は乱暴に開かれ、屈強な男が二人、土足で入ってきた。奥には香具師が立ち、老夫婦に一袋の金を数えさせていた。

「おじいさま! おばあさま!」

 叫んだ。腕枷を嵌められ、肩を強い力で抑えられながらも、あやめは必死に身をよじって叫んだ。

 助けて、助けて、助けて!

しかし、二人は彼女に一瞥をくれただけで、すぐに背を向けた。

 

ここのつ、ぬりてはきんによい

 

 男たちに引きずられながら、あやめはぼんやりと思い出していた。ここに来た最初の日のことを。本当の母親の胸に抱かれ、母は口ずさんでいた。子守唄の一つでも歌うように、このあやめの脳裏から焼き付いて離れない歌は、そうだ、母が歌っていたものだった。

 ひとつ、ぬりてはおやのため

 ふたつ、ぬりてはうみのため

 みっつ、ぬりてはうみごのため

 よっつ、ぬりてはいきるため

 いつつ、ぬりてはあやまちて

 むっつ、ぬりてはたちぬため

 ななつ、ぬりてはおもかれて

 やっつ、ぬりてはおのがため

 ここのつ、ぬりてはきんによい

 そして――。

 

 揺れる馬車の冷たい檻の中で、あやめは怨んでいた。老翁を、老媼を、自らの母親を。

 母は知っていた。人間に育てられたあやめが、最後にはどうなるかを。人のよさそうな老夫婦が、一体どんな仕打ちをするかを。だのに、母はわたしを陸に置き去りにした。子を持つ親のすることではない。何度も何度も、鉄の檻を叩いて泣きじゃくった。

 その声は、うららかな歌のように、風に乗った。

 強い風が運んできた、分厚い雲は空を覆い始め、にわかに降る雨は、馬車の幌を恨めしく叩いた。

 

 夜半過ぎ、夕刻から降り始めた雨もいよいよ激しさを増し、宮のある山の木々は、風に軋んで不気味な音を立てていた。

 一人の女が、傘も差さずに蝋燭屋の前に立ち、その扉を三度、とん、とん、とん、と鳴らした。しばらく待って誰も出てこないと、女はまた三度、扉を叩いた。

 ややあって、寝間着姿の老媼がその雨戸を開け、短い悲鳴を漏らした。女は雨に打たれて、黒く長い髪も、着物もべったりと張り付き、また肌の色が一層白いために、老媼の目には、大層不気味に映った。それから、如何とも言い難い異臭が、雨風に乗って鼻腔を突いた。どうも、この女が胸に抱く、丁字型の干物から腐臭のようなものが漂っているようだった。一瞬見えた月明りに照らされたそれは、真っ赤で、老人の手足ほども細く、しかし女はいたく大事そうに抱えていた。

「蝋燭を、売ってくださいまし」

注意していなければ聞き漏らしてしまいそうなほど、か細い声で女は言った。

「お代ならば、きちんとはらいますから」

客ならば、と老媼は一つ咳払いをして、蝋燭の入った箱を持ち、女の前に差し出した。

 あやめが絵を描いた蝋燭は昼のうちに、あらかた売れてしまったが、それでも数本は残っていた。女はその中から、一つ、ただ真紅に塗られたものを一本手に取り、「これを、塗った娘は?」と訊いた。

だが老媼はかぶりを振って、「出て行ったよ」とだけ、不躾に答えた。

 女は深く項垂れ、代金を払って礼の一つも告げずに、その軒下を後にした。

 訝しがった老媼は、室内の提灯で受け取った金を確認したが、それは貨幣ではなく、同じくらいの大きさをした貝殻でしかなかった。騙された、と激昂し、急いで外に出るも、女の姿は最早何処にもなく、ただ風が強く吹き込むだけだった。

 

 香具師の船が沖にある頃、天気はますます荒れ、海は大しけになっていた。あやめは既に足掻くのを止め、ただ乱暴に揺れる船の底に、横になっていた。これから何処に連れて行かれ、何をされようとも、もうどうでもよかった。老夫婦を憎むことも、もうしなかった。

 ただ、最後に一度だけ、もう一度だけ、母に会いたかった。母がどんな顔をしているのか、あやめは知らない。一度でいい。一度、頭を撫でてもらいたかった。優しい言葉をかけてもらいたかった。一緒に食事をしたかった。一緒に海を泳いでみたかった。

 その叶わぬ願いを胸中に秘めて、彼女は唯一覚えている、母が歌ってくれた歌を口ずさんだ。

 船がぐらりと大きく揺れて、あやめの寝かされた船底にまで海水が入ってきても、剥がれた鱗の痕に、塩水は痛かった。

 

 嵐はそれから三日三晩続いた。

 台風の時期でもないのに、雨と風が吹き荒れ、港に繋がれた漁船も、一隻、また一隻とひっくり返り、海の底へと沈んでいった。

 荒波は海岸を超え、その沿路に並ぶ家々を次々と呑み込んで、小さな村は徐々に削られて、最後にはあの蝋燭屋も沈んでしまった。

 四日目の日の出と共に雨は止み、それまでの荒天が嘘のように晴れ渡り、黒々とした海面を照らした。村のものは誰一人、その光景を見ることはなかった。

 石段は、半分も水に浸かり、頂上に据えられた宮も、先の暴風で半ば倒壊し、あまり手入れをされていなかった屋根は完全に跡形を失くしていた。

 ただ一つ、あれだけの雨が降ったにも関わらず、その参拝口には、真っ赤な蝋燭が一本、灯されていた。嵐でも消えなかったその火は、柔らかな微風が一陣吹くと、思い出したかのように消えた。

 

 とお、ぬりてはかえるため