虚勢の銀貨

東村の日々の記録

健全とは、勝者のいない蠱毒

 さて、予告通り今回は「表現者たるものかくあるべきでは」という私の独断と偏見に満ちたことを書いていきます。

 前回の記事はこちらから。

gleich-sterbe.hatenablog.com

 まず、皆さんは「表現」というもの、ことについてどのように考えているでしょうか。表現とは言葉の通り、「表に現す」ことですね。つまり、普段は内在化しているものを外へ発信し、誰かに受け取ってもらうことです。

 内在化しているものは、時として言葉だったり、思想だったり、不満であったり、賛美であったり、発信元によって千変万化するものです。ですが、勿論発信する以上、受信する側のことを鑑みないといけないことは周知の事実です。私が脳内の世界を皆さんに見てもらいたいと考えたからと言って、私の受けているものをそのまま発信しては、半分以上は理解のできない内容になるでしょう。これは私の頭が良い悪い、また皆さんの感受性が強い弱いに関係なく、各々が立っている前提の世界が違うことに起因します。

 前提や知識、立場が全く同じ人間というのは、瞬間的に作り出した自分のコピーでしかありえません。しかもそれも、生み出して一時間もすれば同じ人間とは言えなくなるでしょう。私がこうも毎回の記事を長ったらしく書くのは、せめて前提だけでも皆さんに同じところに立ってほしいからです。

 知識に関しては、私が一般的な言葉で書き、なるたけ語弊の少ないものを選べばいいだけですし、結論が異なるとすれば、立場上判断処理が違うか、私の力不足で皆さんを同じ前提まで連れていけなかっただけですから。

 

 さて、こうしたことを念頭に再び表現について考えましょう。表現する際の目的は次の三つに大別できないでしょうか。「招集」「提起」「発露」です。

 「招集」は、自身のシンパや共同者等、同じ志を持った人を集めるために行われるものです。演説や講演がこれに当たると思います。

 次に「提起」。これは「招集」と重なる部分はありますが、最終的な目標は、問題を提起して(対象は顕在化しているものに限らないですが)受け取り手に自身で考えてもらうことです。評論やTEDのような演説がこれに当たるはずです。

 最後に「発露」。これは発信元の内在化したものを見せて、いい方向にしろ悪い方向にしろ、何がしかの感動を覚えてもらうためのものです。

 

 上記の三つ、勿論各表現物が一つしか満たせないわけではありません。「提起」と「発露」を同時にこなすもの、「招集」と「提起」を担うもの、などなど。でも、表現されたものを無粋にも骨格のみを取り出せば、この三つに分けられるはずです。

 表現の方法や技法は、この目的の道程の進み方にすぎません。と言っても、私のように表現家を目指す者にとっては、その道程の刻み方ひとつひとつが途方もなく重要なものになってきますが。ここまで言えば察しの付く方もいるのではないでしょうか。私は「表現とは上記の三つ、いずれかに適合するものでなくてはならない」と考えています。この文言だけではいささか条件が足りませんが、それは最後にまとめます。

 

 何かを表現するにあたって、目的となることは三つ挙げました。如何でしょう、これを読んでいただいている皆さんがこれまで触れた表現物の中で、それも鑑賞から何年も何十年も経った今でも印象に残っているものは、この三つのどれかに該当するんじゃないでしょうか。

 以前ツイッターで「いい本とは正当性を持って頬を殴ってくれるもの」と書きましたが、ここでいう正当性は「提起」や「発露」の入り口となるものです。今まで自分が気付けていない、しかし切り口を変えると豹変する事項へのアプローチを教えてくれるもの、また、これまで経験したことのない魅力、深淵を覗く恐怖心と好奇心がないまぜになった世界への鍵の在りかを教えてくれるもの。そうしたものが素晴らしい作品と呼ばれてしかるべきではないでしょうか。

 

 さて、では上記の三つに当てはまらない表現物とはなんでしょうか。私に言わせれば、「受け取り手のことを何も考えず、自身の考えを投げるだけ投げて後は野となれ、の姿勢を取るもの」や「表現を目的とせずに別の何かの手段として用いられた表現物の皮を被ったもの」だと考えています。

 端的には、愚痴や他者攻撃の意図が軸となっているもの、つまりはツイッターでやれば炎上必至のものです。『新潮45』である文芸評論家がこんなことを寄稿していました。このブログを汚辱に染めたくはないのですが、避けては通れないことだと思いますので。

 

「満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。再犯を重ねるのはそれが制御不可能な脳由来の症状だという事を意味する。彼らの触る権利を社会は保障すべきでないのか」

 

 上記の文言はLGBTを叩くために用いられました。曰く「LGBTはふざけた概念だ。生物的にはオスかメスしかない。そんなことでガタガタ騒ぐな。LGBTなんてくだらないものよりも、再犯を重ねてしまう痴漢に対してこそ、社会保障すべきだ」などと言いやがっていました。ただ、これについてはすみません。原文を私は読んでいないので、再度きちんと読んでから、ツイッターにて大々的に叩こうと思います。その時のツイートは、私の表現物ではなく、純粋な私の憤りと侮蔑です。

 閑話休題、上記の文章は先に挙げた三つの目的のうち、どれも達成していませんし、達成を目指したものではありません。LGBTをこき下ろすためだけに書かれた文章ですから、「痴漢を社会保障すべき」という同志を集めるわけでも、他者を啓蒙するわけでも、ましては感動を与えるわけでもありません。私見ではありますが、きっとこれを書いた人は自分の文章に誇りを持っていないタイプなのでしょう。金儲けの手段としてしかとらえておらず、読者もとい受け取り手にどう取られるかを微塵も考えていないタイプの人間です。一挙手一投足に責任を持て、とは言いませんが、自分の表現にくらい責任が持てなくてどうします。私が一番嫌いな人種です。

 

 言葉が過ぎましたが、では表現する上で大切なことは、先の三つの要件のどれかを満たすことではありません。皆さんはもうお気付きでしょう。何よりも必要なもの、それは「独自性」です。オリジナリティ、その人にしかできないもの、言い方は色々ありますが、表現つまり発信されるものである以上、発信元の色が付いていなければなりません。独自性のないものは、文章でいうなら説明書、料理でいうならレトルト食品です。誰が見ても全く同じ感想を持ち、全く同じ味がして、しかもそれが何度も再現可能。独自性を排してしまうとこのような作品ばかりが生まれます。

 

 ここで前回のブログと繋がりますが、市場で需要があるから、と同じような作品ばかりが並ぶようになった昨今、そこにオリジナリティはあるでしょうか。巨乳で都合よく惚れるヒロインは、その作者でないと書けないのでしょうか。

 私が危惧しているのは、この風潮が強くなり、ありとあらゆる作品が経済主義に呑まれたときに起こる「コンテンツの平均化」です。そこには最早、センスオブワンダーも未知との遭遇もありはしません。あるのは価格競争ばかりです。長ったらしい文章系タイトルや中身を端的に表したイラストカバーは、「中身が分からないと購入者は戸惑う」という理由で流行ったものらしいですが、それは発信者、鑑賞者関係なく、作品に携わる人の怠慢ではないでしょうか。

 

 作者は(文学畑なので小説の話ばかりになりますが)他の作品と似たり寄ったりで流行に乗ってとりあえず売れればいい作品を書きたかったのでしょうか。少なくとも作品を作りたいと志したときは「OOさんのXXが一番面白い」、この言葉を期待して自分の文章を紡いでいたのではないでしょうか。他者と同じようにやっていては、よくて他者と同じようにしか評価されませんし、ほとんどの場合、「XXの二番煎じ」と批判されるのが関の山でしょう。初心を思い出してください。

 また、鑑賞者についてもそうです。何故同じようなものばかり求めるのでしょうか。同じものが良いのなら、何故一冊を、一文一文を覚えるレベルまで読み返さないのでしょうか。そもそも、予定調和が約束された作品を読んでいて面白いのでしょうか。次はこうなる、その次はこう、最終的にはこうなって大団円。それが決まっている作品は読むに値するのでしょうか。どうなるか分からないから、どう進むか分からないから、目が離せず次を見逃しまいとして食いつくんじゃないでしょうか。私はまだ鑑賞者としての立場が多いですが、見知った有名な作家以外の本も積極的に読むようにしています。好きな作家の新刊が連日刊行されて、休日にまとめて買いに行くときは、今まで手に取ったことのない作者の本も一緒に購入するようにしています。

 

 表現者とは、「招集」「提起」「発露」を独自性をももって行い、鑑賞者は未知との遭遇を楽しむ。これこそが私達の目指すべき娯楽市場の在り方でしょう。

 書店の棚に無数の色が並ぶまで、私はこれを声高に叫び続けます。

 

 

ゲヘナより愛を込めて。