虚勢の銀貨

東村の日々の記録

目指すのは随一ではなく唯一

 表現の自由。この言葉は今までどれだけの人に曲解され、捻じ曲げられてきたでしょうか。

 

 そもそも日本人は「自由」という言葉に弱いと思います。日本の歴史上、自由を求めて散っていった先人は多くいますが、国家レベルで自由に向かって走ったことはほとんどありません。アメリカの奴隷解放宣言やフランス革命を経験した周辺周囲とは、自由についての捉え方が全く異なります。

 

 そもそも自由というのは一つではありません。日本語ではひとまとめにされているために、誤解されやすいですが、頑とした相違点があります。こうしたときに役に立つのが英語へ直してみると案外すんなり理解できるんです。

 

 英語で「自由」というと「freedom」と「liberty」の二つがあります。前者は「何をするにも、動作主の勝手であり責任である、とする権利を認める状態」のことであります。職業選択の自由はこれにあたりますね。私がどの企業に入り、どの企業へ転職するのも私の勝手であり、また同時に私の責任である、ということです。

 では後者の自由とは何でしょうか。これは「束縛や制限から解放された状態」を示すものです。だから、アパルトヘイトの撤廃や奴隷解放宣言の自由はこちらにあたります。これまで身分や出自によって制限されてきたものがなくなるから。

 

 では、表現の自由とはどちらに属するのでしょう。現在、日本国憲法によって表現の自由は保障されています。私達が広く享受している権利であり、だからこそ波紋を呼ぶのですが。。。

 日本国憲法は、明治憲法の後、第二次世界大戦後に公布されたものであり、明治憲法の頃と異なる内容が多いですね。日本国憲法の中で表現の自由が保護されているのは、私は前時代にそうでない時があったからこそ明文化したのではないか、と思うのです。

 

 小学校、中学校の際に太平洋戦争当時の市民の生活について学んだ機会のある方なら覚えているかもしれませんが、教科書に当時の政府の思想に反する記述があった際は墨で黒く塗りつぶすことがありました。特定の表現に対して検閲をかけていた時代。そんな時代が二度三度と起こらないよう、表現についての自由を認めたのではないでしょうか。

  そうだとすると、表現の自由における「自由」とは制約されていた前時代からの解放、つまりはlibertyを指しています。誰彼構わず好き勝手に好きなことを喚き散らしていいわけではありません。特定の権力に潰されることのないよう、とされているだけです。

 

 しかし、今日、それを「なんでもかんでも、どんな方法手法で発信しても構わない」と考えている人が多すぎるように感じるんです。確かに表現の自由憲法で保障されていますが、それ自体には無論制約があります。みんな大好き「公共の福祉」です。これに反しない限りは保証される、というのが大前提になっています。つまりは、「特定の個人や団体、または不特定多数の有象無象の不和を招いたり、人権を著しく侵害したりすることのない範囲で」ということです。

  私が表現の自由を盾に、A氏を惨殺するシーンを公共放送で放映して、「これが私の表現だ。表現の自由は保障されているから私を止めることはできない」と言ったところで意味がないのと同じです。より日本人的な言い方をすれば「節度を守ってやれよ」ということなんです。

 

 私は常々思っていることがあります。表現者の端くれとしての自負くらいはある私からして、昨今の何がしかのジャンルに属するアーティストは、表現の自由を取り違えていやしないでしょうか。

 私がこのブログ上でいきなり無修正のポルノ画像を添付したり、パフォーマンスと称して全裸で街を練り歩いたり、口が悪い=個性と勘違いして毒舌の皮をかぶった罵詈雑言を並び立てたり、とこんなことは何処からか必ず諌められます。社会の仕組みについて満足に理解できていない小学生でもわかることでしょう?

 

 しかし、昨今のアーティストを称する集団の中には、自身の肩書が免罪符いなり、一人治外法権が適応されていると思いがちではないか、と感じます。ヌードになりたいのも結構、罵言を呈したいのも大いに結構。ただそれは限られたコミュニティ内で発信するべきであり、表立って、まして公共に向けて送り出していいものではありません。それを自由に発信する権利自体はあります。しかし、同時に受信する側にもそうしたコンテンツと出会わずに生活する権利があるのは当然のとこじゃないですか。

 

 更に、ここからはかなり私情が入り込むために、上で書いた「公共へ向けて」と矛盾するかもしれませんが、私のブログが公共に影響力を持つとは思えないし、ここは私のページなので吐き出したいことがあります。

 昨今の創作物では、無意味なお色気が多すぎではなかろうか。私自身、物語を鑑賞する上で比較的、濡れ場や所謂ラッキースケベは欲しくない立場です。にも関わらず、やたらと肌色の多い表紙や、とりあえず裸を見られて主人公に惚れるヒロイン、などというものが氾濫しているように感じます。ラノベは当然ながら、漫画にも多いです。

 

 発信主へ、これらについて苦言を呈すれば「表現の自由が」とした接頭辞が飛び出すことがあります。だが、私が言いたいのは、そのシーンは本当に物語に必要なものなのだろうか、ということです。ストーリーに重みを持たせたり、言外の意図を汲み取らせるための描写ではなく、ただ単に作者の好みで脱がされ、惚れさせられ、時には殺させる、君らにとって創作人物とはその程度なのでしょうか。

 

 表現者が「表現の自由」を手に取ってしまえば、それは表現者の敗北です。「私は好き勝手やりたいから治外法権を振り回します」と言っているようなものです。表現者なら表現で語れ。自分の技を持って見せてみろ。

  ただ、現実はそうもいかないのが実状です。誰しもお金は欲しいし、大成したいと考えています。そうした者が流行に乗り、流行しか受け付けない受信者が飛びつき、腐の連鎖よろしく画一的なものが生まれていく。発信主も自分の創作人物と他人の創作人物が似ていたところで気にも留めない。

 不運にも、現代ではそんな創作人物を大切にしない発信主が多く、更にそのファンも多い。これでは市場が育ちません。経済的に成長はするかもしれませんが、その育った市場の質はどうなのでしょう。右を見ても左を見ても似たようなタイトル、線で引いたような概要、肌色が多い装丁。残念なことに、民主主義社会においては数が正義で、資本主義社会においては稼いだ額が勝者の顔なんです。

 

 別に、私が正しいことを言っているから支持してくれ、というのではありません。私が声を上げて同志やシンパを集めたとして、それが世間的に正しいとは限りません。むしろ、私の方がマイノリティで、先に批判した風潮こそがあるべき姿かもしれないんです。ただ、個人的には表現をする上で市場が求めるものよりも、心酔するほど好んでくれる誰か一人のために書いていきたい、と思うのです。

 

 とりあえず女を脱がせて注目を集めようとする似非表現者と、ナチスの弾圧に屈しなかったエドガーエンデ。私は後者でありたい。

 

ゲヘナより哀を込めて。