虚勢の銀貨

東村の日々の記録

異形の者は障害か

 〈発達障害〉なんて聞くと、定常発達できず、どこかに欠陥がある人、もしくはそれが阻害要因となっている障害者、を連想するんではないでしょうか。ただですね、やはり当事者、専門家、縁ない人、この三者によって厳密な解釈が異なるのが実状です。異なるからこそ、診断基準の一つに「当事者が諸症状によって日常生活に不便を感じているか」という項目があるんです。ですから、今回は当事者としての私が感じる違和感について少し。

 

 まず、発達障害はかなり大きな括りの総称なんです。「腕が痛い症」には打撲や骨折、腱鞘炎、靭帯損傷、肉離れがあるように、発達障害にもかなりのバリエーションがあります。

 まず大別として、〈知的障害の有無〉が基準となります。例えば、同じ自閉症スペクトラム症の中でもアスペルガー症候群は知的障害を伴わないものの呼び名です。ですが、ここに知的障害が入ると、カナー症という名前に変わります。私も検査を受けましたが、知的障害にはかからなかったので、今回はそれを抜きに書いていきます。

 

 さて、発達障害とざっくり言っても、その中には主に三つの分類があります。注意欠陥及び多動性症候群(ADHD)、アスペルガー症候群(ASD)、学習障害(LD)です。この三つはよく同時に解説されたりするどころか、実際の診断でも誤診がままあるほど似たものです。

 まずADHD。読んで字の如く注意力が続かず、また衝動的な行動をしがちな症状です。これは大別的なもので、私生活に直結症状としては以下があります。

・忘れ物が多い

・時間感覚がガバガバ

・思ったことをすぐ口にしてしまう

・精緻さに欠ける

・落着きがない

 これは勿論、定常発達、つまりなんの診断も受けていない人達にも当てはまるものですが、ADHDと定常発達者が根本的に違うのは改善の余地が限りなく少ない、ということです。

 問題ないとされる基準が100として、おっちょこちょいな人とADHDを60としましょうか。一年間、注意されたりいろんなツールを使ったりで両者が改善を目指します。そうなるとおっちょこちょいは70~80まで改善したのに対し、ADHDはよくて65でしょう。

 だからよく「それってだらしないだけじゃないの?」なんて聞かれるんですよ。私としては別にそれでもいいんですけどね。こんな都合のいいことを理解してくれっていう方がおこがましいことなんです、きっと。

 

 次にASDですがこれはよく言われるように、他人が何を考えているかが分からない、つまりコミュニケーションに難が出ることが多いです。具体的には以下の症状が私生活に影響を及ぼします。

・率直すぎるもの言い

・嘘が下手

・回りくどい言い方を嫌う

・言外の意を汲み取れない

・物事に精緻すぎる

 ADHDと同様、これら全てが出るわけではありませんが、これらの症状に苦しむ人は多いです。端的に言ってしまえば、他人への共感性が低いことが主たる原因でしょう。お世辞がうまく言えず、率直にものを言いすぎてしまい他人を傷つけてしまう、というのが往々にしてあるようです。

 加えて、言外の意を汲み取ることが苦手な分、その場の雰囲気を読むことが苦手とする人もいます。彼らは「自分中心にものを考えすぎる」と切って捨てられてしまうのです。

 

 最後にLD。これに関しては私も会ったことがないので調べたことをベースに紹介します。

 読んで字の如く学習障害ですから、何かを学習する際に障壁となる症状です。主に、「読み」「書き」「計算」を苦手とする三タイプに分かれます。ここで重要なのは、知的には全く問題がない、ということです。会話をしていてもかみ合わないこと、支離滅裂な返答をすることが少なく、学習の場を除けば変わりはありません。ですが一度そうした場に行くと違いは顕著に見えます。

 読みに障害がある人をディスレクシアと呼んだりもします。トムクルーズやキアヌリーブスがこの障害であることは有名ですね。読めないから、という理由で書くことにも影響がでることが多く、読み書き障害なんて言われたりもします。

 書きに障害がある人は、多分一番想像しやすいと思います。「鬱」という文字を見た時に、読めはするけど書けと言われたらできない、そんな人は健常者(この言い方嫌いですが)にも多くいるでしょう。それをもっと拡大したものだと考えてください。本を読んだり、黒板に書かれていることを理解したりは可能ですが、それをノートに写すとなると途端に崩れてしまいます。ダンサーの演舞を見て「ここで体がこう動いて」とは理解できるけど再現はできない、そんなところです。ですから板書に時間がかかったり、自分が認識した雰囲気で適当な字を書いてしまうんです。

 三つ目の計算は、そのまま計算が極端に弱い人のことを言います。二桁の足し算はおろか、一桁の計算でも繰り上がりが出るとできなくなる、という症状です。これに関しては他の症状に比べて影響が少ないように見えますが、私達は無自覚のうちに日々数多くの計算をして生きています。「夕食の材料は300円の野菜と500円の肉と、油が少なかったから400円のやつ買って、牛乳がないから200円で、財布に2000円あるから」や「乗る予定の電車は13時半に出るから、家を10分前に出て、いや途中のコンビニに寄りたいから15分前に出て、準備は30分で済ませるから何時には起きて」といった具合です。皆さん、得手不得手はあってもこれくらいのことは毎日やっているでしょう。そこに影響が出るのです。

 

 ここまで主に三つの発達障害について書きましたが、発達障害を語る上で重要なのは、「全てが地続きになっている」ということです。実際私にはADHDの主症状とASDの一部が見えますし、この三つ全てを持っている方もいます。

 

 ですが、これまで書いたことを踏まえて「発達障害」と言われることに一抹の違和感は覚えます。確かに定常発達を前提として構成された社会の中にあってはこの三タイプは障害なのでしょう。ただ、私達発達障害持ちはその社会の中で完全に隔離されているわけでも、絶海の孤島に押し込められているわけでもありません。ある程度のマイナス評価は受けつつ、定常発達者の社会で生きてはいます。

 勿論、これまで挙げた障害は基本的に生得的なものですから上手く付き合っていかないといけませんし、それを盾に全面的なバックアップを受けて好き勝手振る舞うこともできません。私達は自分のできる範囲で、できることをしてきました。そうなると定常発達の人と違う方向へ進歩していきます。だから、ハマる場所にはハマるし、定常発達から見たら才能のようにも見えるでしょう。きっと、これが「発達障害者には天才が多い」なんて大仰に言われる所以です。

 発達障害者は別にギフテッドではありませんから、みんながみんな天才なんてことは曲がり間違ってもあり得ません。定常とは異なるだけです。だから、私は発達「障害」ではなく敢えて、「異形発達」と呼びたいと思っているんです。定常発達にはなれないまでも、別に発達そのものが異常であるわけではない、発達の方向が少し違うだけです。

 その、少し違う先が才能になることも呪いになることもあります。それに限っては個人の適性に依存するでしょう。

 異形です。障害ではありません。

 そんな風に考えないと、こんなクソッタレな脳を持った自分を憎んで仕方ないですから。

 現実逃避していきましょう。

 

 ゲヘナより哀を込めて。