虚勢の銀貨

東村の日々の記録

聖地に馳せて

 「聖地感覚」ってご存知ですか?

 霊感とか邪気とかと並んで眉唾ものなんですが、「神性に縁のある土地に行くと何かを感じる」って感覚です。眉唾ものではありますが、私はなんとなく信じています。現に、私霊感はないんですが、神社とか土着信仰の聖地とか行くと眩暈が止まらなくなるんです。

 私的に推理してみると、これって龍脈とか龍穴とかと関係あるんじゃないかと思います。両者とも風水に基づいた言葉なんですが、「龍脈=大地のエネルギーが流れる川みたいなもの」「龍穴=そのエネルギーが噴出しているところ」です。神社や土着信仰の聖地なんてものは、今のように科学が発展する前、占星術や風水が幅をきかせていた頃に建てられたものですから、そういうものの上に立っていてもおかしくはないですよね。

 で、そうしたものを感じる人が聖地感覚なるものを得ているのではないかな、と考えています。(特定の場所を聖地と思い込んで、脳が勝手に錯覚を起こしてる、なんて至極真っ当なロマンのない意見は却下します)

 

 さて、私達日本人、特に仏教にも神道にも傾倒していない人種にとって、本来の意味での聖地はかなりほど遠いものとなっていますね。日本本州にある有名な聖地としては、比叡山熊野三山伊勢神宮出雲大社などが挙げられます。北海道の神居古潭、沖縄の斎場御嶽やフボー御嶽もそうですね。世界に目を広げてみると、キリスト教バチカンイスラム教のメッカ、ユダヤ教含めた三教のエルサレムヒンドゥー教カイラス山などなど、挙げた以外にも無数にあります。ですが、同時に今挙げた中で皆さんが行ったことのある土地はどれほどあるでしょうか。

 私は伊勢神宮斎場御嶽、フボー御嶽くらいです。ですが、やはり私も特定の宗教の信者というわけではありませんので、歴史的な建造物やそこにある自然を見るくらいの楽しみ方が精々でした。でもね、私思うんですけど、本来の聖地を本来の意味で訪れる人ってもう日本にはほとんどいないんじゃないでしょうか。何よりも、特定の宗教に属している人の絶対数がかなり少なくなってきています。初詣は神社に行き、亡くなれば寺の墓に入るのが大多数ではありますが、神社に詣でるからといって結婚式に白無垢を着る人はどれくらいいるでしょう。御影石の墓に入るからといって、頭を剃って日々精進料理を食べている人がどれだけいるでしょう。

 知らず知らずの間に、と言うよりも日本に生まれた時点で、聖地を聖地と正しく認識して訪れる機会は限りなく少なくなっているんです。

 

 ただ、きっと皆さん違った意味での「聖地」は割と日常的に使っているんではないでしょうか。例えば、アニメや映画、ドラマの舞台を訪問する「聖地巡礼」が有名でしょう。私の記憶が正しければ、それまでも同等のブームはあったものの2000年代の漫画(アニメ)『らき☆すた』で市民権を得始めましたね。その後、『けいおん』『あの花』『氷菓』『ガールズ&パンツァー』と、アニメで町興しと言われるまでになりましたね。アニメや原作の表現技法によるところも大きいですが、同じくらい個人によるものも大きいと思います。

 個人がその作品を神格化もしくは心酔して、次元の壁は隔てつつも登場人物と同じ風景を共有したい、彼らの息吹を感じたいと考えるのは正しく宗教の聖地に通じるものがあります。ですがここで勘違いしないでほしいのは、前提にあるものは「個人の意思」であって「原作があるから」というわけではないんです。簡単に言えば、「その人がそこを聖地だと思うから聖地になる」ってことです。ですから、別にロケハンや舞台であるかに関わらず個人が強く惹かれる場所こそ聖地なんですね。

 

 皆さん、そういう場所ありませんか? 思い出の場所だから、好きな俳優の出生地だから、何故か昔から惹かれていたから、そんな理由で強く思い起こせる場所を、きっと皆さん持っているはずです。

 私の場合は、シャウレイとトスカーナですね。シャウレイはリトアニアにある都市で、無形文化遺産十字架の丘へのアクセス拠点になります。トスカーナに関しては、詩人ダンテの出生地です。どちらにしても、私は直接は知りませんし、別段知り合いがいるわけでもありません。ですが何故か、自分でも不思議なくらい惹かれてしまいます。私の中の信仰心のまがい物がそうさせるのか、輪廻の業がそうさせるのか、推し測るにはあまりに次元を異にしているため分かりませんが、そこに行くことで何かが変わるんだろうという無根拠な確信はあります。

 

 聖地における聖性はきっと、土地に宿るものではなく人の内部にて自然か人工かは問わずに、いつの間にか発生するものなのでしょう。宗教によるものにせよ、私のような歪曲した憧憬によるものにせよ、神なるものが物質存在ではなく現象的な偶像である以上、両者の間に断絶するほどの差はないと私は思います。

 確かに、原理主義や熱心な教徒からすれば私の意見は鑑みるに値しない愚かなものでしょう。ですが、私は生まれてこの方、私以外を信仰の対象として掲げたことはありませんから、私が感じる場所が聖地であると信じて疑っていません。かなりの暴論であることは自覚していますけどね。

 

 皆さんにとっての聖地は一体どこになるんでしょう。

 ニライカナイでもない限り、きっと皆さんもそこへ行く機会には恵まれるはずです。聖地という土地は偶像でも現象でもなく、物質存在としてそこにあるんですから。

 

 ゲヘナより愛を込めて。