虚勢の銀貨

東村の日々の記録

無差別言語爆撃

 人を殺す言葉ってあるじゃないですか。「言葉はナイフ」なんて使い古された表現があるように、言葉はそれだけで人を殺す力を持っていますよね。

 最近、東京で男性が刺される事件があったじゃないですか。容疑者の女性は「好きで好きで仕方がなかった」と供述しているようです。およそ私には想像ができませんが、彼女が欲しかったのは「愛してる」の言葉だったのでしょうか。それとも「愛されている」という実感だったのでしょうか。ともあれ、男性側が愛を囁くようなことはなかったと思います。この場合、「人を殺す言葉」は発したから効果を発揮したのではなく、発しなかったから効果が出たのでしょう。……あまり時事ネタを取り入れるべきではありませんね。

 一昨日、後輩が私についてのブログを書いていました。どうやら後輩は私を買い被っているようですね。私はプラスに語られるほどできた人間ではないですし、人から庇ってもらう権利があるほど上等な人様ではありません。一体の自動泥人形ですから、動けば泥が飛び散って、日本語らしき鳴き声を出す程度の機能しかありません。ペッパーの方が遥かに優秀ですよ。

 

 さてさて閑話休題、皆さんにとっての「人を殺す言葉」ってなんでしょう。愛しい人からの呪詛でしょうか。上から投げられる人格否定の槍でしょうか。結構その辺に転がっているものです。

 今日ね、上司から「なんか日本語がおかしいな」と言われたんです。多分私にとってこれがトリガーなんでしょう。想像以上に深いダメージを負った自分がいました。「小説家になりたい」なんて豪語するくらいですから、日本語を扱う技能にはそれなりの自信があったはずです。でも、実際蓋を開けてみれば、たった二三行の文章ですら「おかしい」と言われる始末です。上司が極端にアホで、私が書いた難しい漢字が読めない、とかなら分かります。でも上司はとても優秀な方ですから、そんなことはあり得ません。

 つまり、「それなりに文章は書けると泥人形」だと思っていたのは実のところ「正真正銘の無価値な産廃」だったわけですね。笑えてきますよね。しかも、先に挙げた後輩のブログ、既に五回は読んでいます。何と言ってもね、文章がとても綺麗なんです。論理的におかしいと感じるところもないですし、高いところから水を流すように滑らかで、読み手の中にすっと入ってくるんです。対する私なんかは、文章はがちゃがちゃで、論理的整合性なんてあってなきが如しですし、誤字脱字の嵐でお世辞にも綺麗な文章なんかじゃありません。公衆便所の落書きのほうがまだ読めるってもんです。

 後輩は新人賞で最終までいったくらいの実力の持ち主ですから、文章が綺麗で当たり前だったんですよね。私はきっと、歳下ということでどこか舐めていたのかもしれません。最終選考を勝ち抜いて、小説家としてデビューするには後輩のような鋭敏なセンスと確かな実力を持つ志望者達と戦わないといけないんですよね。。。

 

 正直なところ、最近分からなくなってきています。少し前までは文章力はあると思っていました。他のそういった人よりも、言葉選びや文章構成の技術は高いと思っていました。だから通り一遍な文章よりは読んで楽しんでもらえると考えていたんです。

 でも、もしかしたらそれは間違いかもしれません。単純に私に技術が決定的に欠落していて世間一般の基準を満たしていない駄文だから真新しく見えただけ、とか。可能性としてはこっちの方が遥かにありえますよね。なんたって泥人形ですから、人間様と同じことができるはずがないってのが論理的な帰結じゃないですか? だから上司にも「日本語がちょっとおかしい」なんて言われるんですよね。

 「日本人ならある程度日本語が使えて当然」「報連相の不備なくできて当たり前」そうなんですよ、基本的に当たり前なんです。だからきっと私が悪いんです。

 

 多分、26歳になるまで半年を切りましたからこう、虚無ちゃんが大きくなっているんですね。あと一年、頑張ればいいのはあと一年だけ、それを胸に毎日の汚泥を爬行していきます。

 

ゲヘナより愛を込めて。