虚勢の銀貨

東村の日々の記録

流れに杭を打つような

 「コストパフォーマンス」という言葉が嫌いです。

 再三、現代の経済至上主義が嫌いなことは書いてきましたが、この言葉は経済至上主義を標榜してあまりあるものだと思っています。私はBtoBのIT企業のインフラ営業ですから、顧客がこの言葉を使うのはまだ分かります。一機数千万のインフラもありますし、イニシャルコスト、ランニングコストを計算した際に、支払ったコストに見合うだけのリターンがあるか、気にするのは当然ですね。

 しかし、このコストパフォーマンスは使われるのは主に一般人の私生活で、ではないでしょうか。「コスパがいい」「コスパが悪い」なんてよく言われますし。ただこの時点で寒気がします。「Cost-Performance」恐らく和製英語ですが、この場合コストは接頭辞です。つまり、名詞としての本分を果たすのはパフォーマンスのほうで、パフォーマンスを形容詞等の補語で修飾するときは「パフォーマンスが高い」というはずです。「いい」「悪い」が使われるときは叙述用法ではなく限定用法として「いいパフォーマンス」と言うはずです。そもそもこの時点で本来は「高いパフォーマンス」であるべきなんですがね。

 

 さてさて、閑話休題、実際のところコストパフォーマンスと発言する際、何を比較しているんでしょうか。モノの本質を、価格という付随基準も鑑みて比較しているのでしょうか。確かに、同じインクフローで同じ太さで同じ色をしたボールペンが二本あれば、インク量の多い方がコストパフォーマンスは高いでしょう。では、一冊100円のノートでは如何でしょう。一方はツルツルでボールペンの字が滲まない100ページのノート。もう一方は70ページで紙は固く、ざらざらした書き心地。枚数あたりで比較すると前者がコストパフォーマンスは高いでしょう。しかし、私はざらざらの書き心地がすきですので、100円で70ページもあるならむしろそっちの方が嬉しいです。

 このように、コストパフォーマンスの単語一つとっても比較対象はばらばらなんです。その無限にある対象の中から一つを選ぶ際に、乱暴な言葉一つで切ってしまうのは、それは発語側の怠慢ではないでしょうか。

 

 平時、コスパだの言っている人は何を対象としているのでしょうか。外食に対して言う人もいますね。ここの店はコスパが悪いって。その時の比較対象は? 塩分量でしょうか、摂取カロリーでしょうか、提供されるまでの平均時間でしょうか、栄養素の量でしょうか。

 まさかとは思いますが、味だの満足感だの雰囲気だの、そんな数値化できないもので比較して、あまつさえコストパフォーマンスの一言で終わらせようというのでしょうか。あまりに横暴だと思います。本当にコストパフォーマンスの高い食事を求めるなら、ネット通販で完全食でも買って、水道水とそれだけで暮らせばいいじゃないですか。

 

 こんな、本来日々の楽しみとしてある程度はコストも採算も度外視すべき食にまでコストコストと付ける社会ははっきり言って異常です。

 最近、某議員が人間の生産性について発言して波乱を呼びましたが、私が異常な「コストパフォーマンス」なる言葉に感じる違和感、ないし気味悪さは同等のものです。

 コストを気に掛けることは、一定のコスト内で最高率の生産性を模索することです。食のように、ある程度の娯楽性を持ち合わせた中に生産性を求めること自体がおかしいのです。

 確かに、娯楽には何かを生み出す原動力になる力はあります。ですが、それはあくまで受取手内で起こる化学反応のようなもので、娯楽そのものに原動力としての側面が内包されているわけではありません。娯楽は娯楽でしかないんです。

 

 娯楽に生産性を求めたとして、何を生産するつもりでしょうか。食に生産性を求めて、何を生み出すつもりでしょうか。

 言葉の濫用は、不要な変化を生み出します。

 否応なく、自然発生的な変化は、緩慢な時代の移り変わりと共に人々に認知されないレベルで起きていきますが、急激に起こされた変化には、必ずひずみが生じます。結果として、そのひずみが原因で死後や原義からかけ離れた姿へ歪に曲げられていきます。

 

 今回はあくまで私が強く感じるコストパフォーマンスへの違和感でしたが、少し強くアンテナを張っていれば他にもひずみの兆候を孕んだ言葉は無数に見付かるでしょう。

 きっと私一人では、濫用の潮流には逆らえません。でも、これを読んでくれている皆さんが、ほんの少しの違和感を感じ取るきっかけにでもなれたら、きっとその芽は無駄ではないんだと思えるはずです。

 

ゲヘナより哀を込めて。