虚勢の銀貨

東村の日々の記録

泥より出でて泥に染まらず

 皆さん、ご無沙汰しております。


 長らく更新できておらず、すみません。
最後の更新から9か月あまり経っていますね……。昨年10月に最後の更新をしてからは、原稿のほうにかかりきりで、ほとんど他のことをする余裕がなかったです。その原稿については、2022年3月末締め切りのハヤカワへ応募します。今度こそは。

 

 さてさて、あのあといろいろあったわけですが、ここ最近やっと公私ともに時間が取れるようになって、本を読む時間も増やせつつあります。
Covid-19、未だに猛威を振るっていますね。早く収まってほしいものです。おかげで遠出や飲み会もはばかられる状況で、家にこもる時間も増えて、本に手を伸ばせる時間も増えました。
 ただ、どうなんでしょう、最近心底から震えるような作品には出会えていないんですよね。
 それこそ『ニューロマンサー』や『魚舟獣舟』のように、読んだ瞬間脳天から串刺しにされるような、と言えばいいんでしょうか、そんな衝撃を受ける作品に会えていません。私の感性が衰えたのかとも考えましたが、そうではないと仮定して今日は一本記事を書いていこうと思います。

 端的に言ってしまうと、最近読者もとい、受け手の質って下がったように感じるんですよね。いえ、これを読まれている皆さんを批判するわけではなく、市場全体を見たときの話です。
 私はSF畑にいますから、SF作品をメインに読んでいます。もちろんSFの特性上、いろんな科学技術や考察、哲学や理論、理念や歴史なんてものまで絡んでくるわけです。私達読者はアカシックレコードを持っているわけではありませんから、作中で説明されていることを精一杯拾って、世界を構築して、自分なりに解釈して作品を楽しむわけです。
 昨日、私の好きな作品をなんとなく調べてみました。私の中の評価と市場の評価が釣り合わないことは常で、その作品も星3.5くらいでした。またレビューの中にこんなことが書いてあったんです。
「難解な言葉や理論の羅列で読みにくく、楽しめない。あまり読書しない僕でも楽しめるような作品を、今後は期待したい。なんでこんな作品が賞を受賞したか不思議」
 これ見た瞬間、めちゃくちゃ腹立ったんですよ。作品が理解できないのは当人の実力不足です。それを棚に上げて「難しいから面白くない作品」と切り捨てるなんて、愚かというか身の程をわきまえていないというか、筋違い甚だしいじゃないですか。
難度と作品の面白さは、そりゃ多少は相関関係はありますが、「分からない=つまらない」「わかりやすい=面白い」ではないはずです。そんな簡単な方程式が成り立つなら、毎年の本屋大賞は『桃太郎』が総なめしますから。

 ただね、これ多分本に限った現象じゃないんだろうなって私思うんです。
少し前にファスト映画なるものの首謀者?が起訴されましたよね。映画を10分前後にまとめたものをYouTubeに投稿して広告収入を得ていたとして、著作権関連でしょっ引かれたのを覚えています。私ねえ、これ、投稿者だけの問題だとは思えないんですよ。
映画館のマナーの話がよくネット記事になっているじゃないですか。「最近の若者は二時間の映画に耐えられない」だとかなんとかで、鑑賞中もラインやツイッターをしてしまうって。そういうのが高じて、「二時間も持たない視聴者へ」向けられたのがファスト映画だと思うんですよね。

 私のスタンスとしては、もちろんファスト映画には反対です。恣意的に名シーンや派手なシーンだけを切り抜いた映画は映画ではなく、ただの情報になってしまいます。グーグルマップのストリートビューを見て旅行した気分になっているのと同じです。
ただ、世間的にはン万円も広告収入がもらえるほど視聴者が、つまりは需要があったわけです。嘆かわしいことです。

 映像にしろ、音楽にしろ、文芸にしろ、芸術にしろ、何かを鑑賞するってそういうことじゃないじゃないですか。五感でその作品を受け取って、自分でかみ砕いて、解釈して予想して、自分の中に落とし込むそういう一連のプロセスがあって初めて、「その作品を味わった」と言えるんじゃないでしょうか。そうやって真摯に向き合うからこそ、感動や恐怖、羨望や嫉妬、いろんな内面活動が現れるものでしょう。
10分で映画を見た気になったり、分かりやすい解説だけで名著を読んだ気になっているのは、学歴や年収だけで人となり全てを理解したつもりになる愚かな行為です。

 ただ、悔しいかな、ファスト映画や名著解説を好む人の気持ちが分からないわけではないんですよ。情報が加速されすぎた近年の世の中で、腰を据えて作品を楽しむ時間って取りにくくなったじゃないですか。やっと作った余暇の中で、他にもやりたいこと/できることがある中、映画鑑賞や読書をわざわざ選んだのに、つまらないものは引きたくないって気持ちは多かれ少なかれ誰にでもあると思います。
 でも、それが許されるか否かについては別問題です。名著解説が流行った結果、ファスト映画みたいな不埒な輩が出現しました。先の解説だって、「50ページで分かる!『百年の孤独』」みたいなものがあったら、『百年の孤独』自体よりも解説本の方が受け入れられると思います。もう世間にはそういう風潮が根を張ってしまったんですよね。
 これに関しては冒頭でも述べたように、「鑑賞側の質の低下」が根本にあると思っています。作品と真摯に向き合う姿勢が減って、“分かった気になる”簡単なものばかりを摂取すれば、言わずもがな受け手の能力は落ちてしまいます。
その結果、映画にしろ本にしろ、「(理解する努力が不要な)簡単で分かりやすいもの=面白いもの」となってしまったんじゃないかな、と私は分析するわけです。

 そういう社会の中で、できれば私は抗っていきたいんですよね。皆さんも経験ないでしょうか。心がぐっちゃぐちゃになるほど素晴らしい作品に出会って、誰彼構わず進めたくなるような経験。もしくは、何年経って何度繰り返し鑑賞しても、その都度新しい発見があって同じ作品なのにいつも別の角度から驚かされるようなこと。
私はね、そういう経験こそ作品鑑賞の本質だと思うんですよ。世に出すところまでは作り手の仕事。でもそれだけじゃ作品は完成しません。私達受け手がそれを受け取って、自分の中に落とし込む。そこまでして初めて作品それ自体が完成するんだと思っています。戯言ですかね。それでもいいじゃないですか。
 少なくとも、上辺だけを撫でて深層まで覗いた気になる道化よりは、不格好で回りくどい痴れ者の方が作り手も喜んでくれると思うんです。私が作品を楽しんで、作者がそれを喜んで、そういうwin-winの関係が創作にはあってほしいじゃないですか。

 皆さんはどういう面持ちで普段作品と向き合っているんでしょうか。似たようなお仲間さんがいらっしゃれば幸いです。

 

ゲヘナより愛を込めて。