虚勢の銀貨

東村の日々の記録

ダウナートリップ

 神戸は雨が降っていました。雨の日は好きです。人の顔を見る必要がないし、日光は降り注いでこないし。何よりも街全体が静かになるのが大事ですね。雨の日に騒音は似合いません。足音とも水音ともつかない音が耳の中に静かに反響するのがいいんです。

 

 さてさて、今日は久し振りに創作とか、そのあたりについて書きましょうか。創作論、なんて大それたものでもなく、何作か書いて気付いた私の作品の共通点でしょうか。そんなところを少し。

 

 皆さんの作品には、作品個別ではなく横断的なテーマってあるでしょうか。自分の作品を複数見比べた時に見えるものの話です。例えば「いつも何かしらの形のボーイミーツガール」だとか「生きる上では愛情が不可欠」だとか「静寂」だとか「死」だとか、そんな文章でも単語でも、必ず共通するものです。これに関しては作ろうとして出るものではないと考えています。作者の人となりや背景、根底に眠る思想や某かと接する際のその人の姿勢などなど、取り繕えるものではなく、しかも自然と溢れてくるものではないかな、とそんな風に考えています。

 では私の場合の横断的テーマは何か、と言うと幸か不幸か【孤独】でした。いつも手を変え品を変え、孤独を描写していました。夫に先立たれた妻、周りと意見が合わず一人逃げ出した娘、娘も妻も失くした男、老いない身体で一人で生きる老人、そんな人が私の作品では主人公を飾っています。

 

 孤独、というのは私は人間になくてはならない感覚だと考えています。マイナスな感情、背景として排斥されがちなものとして掲げられることも多々ありますが、孤独こそ個人を規定する第一の要素だと措定しています。

 私達人間は社会性動物として、言葉を用いたコミュニケーションを駆使して生きています。社会というのは一個の共同体です。共同、つまり同じ志や目標目的、背景を持った人(便宜的に人間に限定します)の集まりです。「日本社会」と定義した場合、中身になるのは「日本国籍を有し、にほんで生活を営んでいる人々の共同体」となりますね。これがどれだけ小さくなろうとも、関係性の発生するところには規模の違いこそあれ社会であることに変わりはありません、単なる言葉遊びですので、社会学的見地はこの場合除いてくださいね。

 私達は生きている以上、必ず何かの社会に属しています。これは生まれた瞬間からです。新しく誕生した子供は家族という社会にまずは組み込まれます。その後成長するにつれ、幼稚園や保育園、ご近所さん、町内市内、小学校から大学まで、必ず何かの社会に属します。言うなれば、常に他者の存在が身近にある状態にいるわけです。

 その常に何かとの関係性がある中で「孤独でいる」、もしくは「孤独と感じる」というのは得難い感覚だと私は考えます。自身が身を置く場から俯瞰して分析して、他者との差異を見出せなければ孤独なるものへは至れません。孤独とは文字通り「独り孤立していること」ですね。自身の孤独に気付ける人はその場にいながらその場にいない、自分が見ている環境から一線を引いたところに立っている、そんな状態です。こうした状態で内省は発生するものです。

 「周りから外れた自分は何なのか」「周りと異なる自身は何者なのか」誰しもの中に眠っている微かな疑念が、こういうときにこそ首をもたげるのです。勿論、これには訓練が必要です。先に書いた通り、人間は普段は社会性動物故、いきなり孤独に投げ込まれるとパニックに陥ってしまいます。皆さんの周りでもいませんか? 何をするにも誰かと一緒で、暇さえあれば誰彼構わず複数人でいようとする人。本当に一人になるのは就寝するときくらいで、何をしていても必ず側に誰かがいるような、そんな生活をしている人は、最近めっきり増えたように感じます。きっとSNSが発展してきてどこかのコミュニティに属していることが当たり前になったことに起因するのでしょう。

 別にそれはそれでいいことだと思います。酸素に包まれて生きている動物が、溺れたときに水面を目指すのが当然なように、関係性の中で生きる人間が、孤独を恐れて関係性を求めるのは至極真っ当です。

 ただやっぱり、溺れないと見えないものってあるじゃないですか。溺れて死にかけたあとに戻ってきても、そこで見えるものはそれまでとは違って見える世界があるじゃないですか。私にとっての孤独っていうのはそういうものなのです。私が孤独だから、孤独と思えるから見えるものがある。孤独だ、と酔っていられるから感じられるものがある。そんな風に考えていたいんです。

 

 そもそも私が小説を書き始めたきっかけには孤独が含まれていました。今になって考えてみればですけど、「本が好きだった」「憧れた作品があった」「なにかを作るのが好きだった」「恋人が背中を押してくれた」色々ありますが、うち一つには「集団でいることに違和感や疎外感を感じていた」ことがあります。幸いにも、こんなアカウントを始めて、それなりに多くの同志にも恵まれ、完全な孤立無援にはなっていません。でもやはり、小説を書くなんて作業は徹頭徹尾孤独な作業で、時として同じ方向を向いている人に会っても、ゆくゆくは違う道を踏んでいくんでしょう。

 得てしてそういうものじゃあありませんか。似た形の木が生えて、同じく天に向かって伸びたとして、その全景は同じわけがありません。少なくとも私は孤独という地に根を張って、そこから吸い上げた養分を溜めこんで私にしかつけられない実をならせるんです。私の作品は、既存の作品に似た部分はあっても、全くの一致するものにはなりませんし、ならせません。

 

 これからも孤独を武器に、私は太く空虚に育っていくはずです。26歳までは、ね。

 

 皆さんの横断的テーマはなんでしょうか。

 

 ゲヘナより愛を込めて。