虚勢の銀貨

東村の日々の記録

老いて枯れる

 先日、海の日の三連休を利用して帰省しました。バイクでの帰省です。梅雨前線の影響で雨を心配しましたが、移動中ずっと雨ってことはなく、局所的に降られたりはしましたが概ね曇りで日差しも強くない中を走れました。

 6/30で私の愛車のえっちゃんが一年を迎えました。2018/6/30に納車されてから、結構いろんなところを回りました。本州34都府県のうち17には行きました。東北はどうしても遠いので、今年は中国地方を制覇したいな、と考えています。

 

 私がバイクを買ったのは、遠くに行く免罪符が欲しかったからなんです。勿論、昔からメカメカしい体躯や走る姿に憧れはありましたが、気力とガソリンの続く限りほとんど全ての場所に行ける、というのが何よりかっこよかったです。

 確かに車の方が何にしろ便利です。夏も冬もエアコンのおかげで快適ですし、その気になれば車内で寝泊まりできます。バイクのようにパーツがむき出しじゃないので、普通に走る分にはメンテナンスもそんなにかからないでしょう。雨天時や冬もスリップの心配は少なく、万一事故を起こしても死ぬ可能性はバイクに比べて格段に低いです。

 そんなことは分かっています。でもね、私は小回りが利いて、環境の変化を直に感じて、私がメンテナンスしないとすぐにダメになって、死と隣り合わせのバイクが良かったんです。バイクが死ねば私も死ぬ、私が死ねばバイクも死ぬ。そんな一蓮托生がよかったんです。

 

 さっき上で「免罪符」と書きました。私の勝手な印象ですが、車というのは帰る場所、収める場所ありきのものだと感じています。私が車の免許を持っておらず、一人でドライブをしないからだと思いますが、誰かと乗って帰ることが前提の遠出をするために乗るものだと思っています。

 対するバイクは、タンデム(二人乗り)やサイドカーはありますが、基本的に一人で乗るものです。よく界隈で過激派が叫んでいますが「一人で起こせないなら乗るな」「簡単な整備もできないなら乗るな」、そんな孤独な乗り物です。

 過激派の意見に全面的に賛成するわけではないですが、Twitterで「姫ライダー」などと揶揄される人種は酷いものです。立ちゴケ(停車中にバランスを崩して車体を倒すこと)や発進時にエンストして倒したときに「えーやだどうしよどうしよ」と自分で起こす努力もしない奴までいます。姫ライダーですから、周りには従者の騎士ライダー(笑)がいます。倒したとき、困ったときは全面的に前に出て、姫に良いカッコすることが本懐のようです。検索するとごまんと出てきますよ。一昔前のオタサーの姫みたいなものです。私が彼ら彼女らに口を出す権利なんて露ほどもありませんが、正直なところ、同じバイクオーナーとしては数えたくないですね。

 私の発想や固定観念が古いのかもしれません。バイクはたまの例外こそあれ、孤独の乗り物だと今でも思っています。一人で乗って、一人で楽しんで、そういうものだと思っています。孤独、ということは自分で全てに対処しにといけない代わりに、何をするにも自分の自由です。独りでないとできないこともあります。複数人で遠出をするのは小旅行になるでしょう。でも独りなら、遠出にジャンルを与える必要はないんです。独りだから。

 独りで、バイクに乗っているから。大概の人はそれで納得してもらえます。私は小旅行がしたいわけでも、決まった場所へ出かける足が欲しいわけでもありません。行先も遠さも分からない場所に行けるから、だからバイクが欲しかったんです。バイクに乗ってるから、独りでふらっと遠くに行っても何も言われない、そんな状況が欲しかった。

 

 実際、私の風来坊は加速したように思います。意味もなく見ず知らずの土地へ出かけることも増えました。今まで見向きもしなかった道の駅へよく立ち寄って、バイクに乗っていなければ通らないであろう住宅街を突っ切って、縁もゆかりもない港町を走りました。ここの街に住む人はどんな生活なんだろう。この山間に住む人はアクセスが不便じゃないのかな。この港で働く人はどんな魚を食べてるんだろう。ここの人は、あの人は、この土地は、あの山は、そこの川は、そっちの海は。そんなことを考えているうちに「そのうちこんなところで暮らしたいな」「港町で生活するのは辛そうだな」と想像し始めました。

 と同時に、なんて言うんでしょう。実際に自分がどこに住みたいのか、どこで生活したいのかが分からなくなってきました。今は神戸で住んでいますし、それまでに生活したことある場所だと埼玉と東京です。私は本当に今のところで暮らしたいのか、それとも実家に戻りたいのか。段々と分からなくなってきました。

 そうなると、言霊ってわけでもないんですけど、今いる場所が自分の居場所ではないように感じてくるんです。集団からの疎外感は常に感じていますから、そんなものじゃあないと思うんです。神戸の自宅にいても、埼玉の実家にいても、職場にいても、「ここは帰る場所じゃないな」「ここには居場所がないな」と感じるんです。

 よくツイートでも現実でも「帰りたい」と口にします。でも本当のところ、どこに帰りたいかがよく分かっていないんですよね。自宅は何者にも侵略されない私的な空間ですが、なぜか休まる場所ではないんです。自宅で休めば、数時間後には出勤しないといけません。会社にいれば、私のような泥人形の労働力なんてあってなきが如しですから、いつも周りから白い目で見られているんじゃないかと猜疑心が蠢いています。実家にいても、父も母ももうお互い別々の道を歩いていくと決めたようで、その間に私が入る余地はありません。

 何も考えないで済むのは、バイクで山の中を走っているときか、ドトールの喫煙席にいるときくらいです。それも、ものの数時間で終わってしまいますから、結局のところ解決策にはなりません。

 「家では彼氏彼女/子供/奥さん旦那さん/ペットが待っている。だから帰らないと」なんてよく言いますよね。「クリアアサヒが家で冷えてる。心ウキウキワクワク」と謳ったCMもありますが、これは「家は一息吐いて落ち着ける場所」であることが大前提です。私の家は、がらんどうで物ばっかり多くて肝心なものは何一つない雑多で空虚はスペースです。たまたまそこで寝泊まりをしている私的な場所、というだけで、心休まる家ではないんだろうなって感じがします。

 そんな場所から逃げたくて、ここ以外に帰る場所があるはずだと無根拠に信じて、全国津々浦々、バイクだけじゃなくて色々訪問しましたが、結局のところそんな場所は見つかっていません。もうなんとなしにわかっていますが、多分、そんな場所は全国どころか世界中どこを探しても見つからないんだろうと思います。昔はあったかもしれませんし、最初っからなかったのかもしれません。少なくとも昔はここまで強く感じたことはなかった、、、はずです。

 帰る場所ってなんなんでしょうね。本来詭弁と願望で生み出された概念上の存在でしかなく、普通の、泥人形じゃない人間様には気にするにはあまりに些末なものなのかもしれませんね。

 どうせかえるなら、土に還りたいですね。

 

ゲヘナより哀を込めて。