虚勢の銀貨

東村の日々の記録

下水道から人間様を見上げるような。

平均的な人生、とはどういったものでしょう。

 

親や、その祖父母からは「いい会社に入って、結婚して、車買って、家を買って、60まで勤め上げる」ことが普通と聞かされて育ちました。でも、バブル世代と言われる両親の時代から世界は一層変わり、ゆとり世代と呼ばれる私達が目指す生き方は必ずしも彼らが望むものではなくなっています。

普通が一番難しい、なんて手垢のついた表現で叫ばれますが、本当にそうでしょう。私が感じる、私の同年代の普通とは、それなりに働いて、それなりの給料をもらって、「死にてー」が口癖で、休日はデートか趣味かスマホで一日を潰す、そんな生き方が私世代の普通だと感じています。

だから、普通が一番難しい、の裏には(バブル世代が言うところの)という接頭辞が隠れているんですね。ただ「難しい」の中にも語弊があるのではないか、と私は考えています。

 

 そもそも「結婚して、車買って、家を買って」こうしたことを達成したい人がどれだけいるのでしょう。結婚をしたい人の割合は年々下がっていると聞きますし、体感としてもそう思います。

車も、本当に車が必要もしくは車が好きで欲しがっている人は多くないのではないでしょうか。私は今は神戸で暮らしていますが、それまでは東京が生活圏でした。学生のうちに免許を取らず、社会人になってから無理やり時間を作って取りに行きました。だって、必要だと思わなかったんですから。

東京なんて、山手線圏内でしたら、二駅三駅歩くのは全く苦ではありませんし、バスや自転車に乗れれば大概どこへでも行けましたから、私は車が欲しいということが理解できませんでした。

結婚に関しても、同年代で積極的な人を見ることのほうが珍しいです。「ゆくゆくはするのかもしれないけど、今は考えてない」「結婚することにメリットを感じない」こうした主張をする人が大多数だと感じます。

昔よりもありとあらゆるインフラが発達して、男性でも簡単に家事ができますし、女性でも出世を望めるようになりました。誰かに頼らなければならない部分はこの半世紀でぐっと少なくなりました。

断っておきますが、私は「男は外、女は中」なんて昭和に毒されたジェンダー論を弄し隊のではなく、昔はこういう風潮があった、という事実を話しているだけです。

 

さて、そんな現代現在において平均的な生き方、とはなんでしょうか。

「それなりに働いて、それなりの給料をもらって、「死にてー」が口癖で、休日はデートか趣味かスマホで一日を潰す」こんな生き方でしょうか。

私は常々、今の世界は生きづらいを感じています。多分それは、平均から、つまり普通から外れすぎていて根拠をどこに持っていけばいいかが分からないからなんでしょう。他から離れすぎて、自分のことが思うようにいかなくて、そんなある種の欲求不満が不快へと繋がっているんだと思います。

気を使われるのが嫌なように、よそよそしく接せられることに我慢がならないんです。

面倒で難儀な性格ですよね。

 

そもそも私が周りと違う、と感じ始めたのは小学校高学年からでした。

その頃、テレビでは長州小力が流行っていました。小学生ですから、テレビに出ている面白い芸人の真似はたくさんするでしょう。「キレてないっすよ」と聞かない日はなかったと記憶しています。

ですが、私には何が面白いか分からなかったのです。別に長州小力がつまらないと言っているのではなく、それを真似して、何が面白いのかが分かりませんでした。その他も、KAT-TUNモーニング娘。、『世界の中心で愛を叫ぶ』、『オレンジデイズ』等々、私の興味は向きませんでしたし、何故周りでヒットしているか分かりませんでした。

「ヘキサゴン観た?」「はねトビ観た?」と盛り上がる隅で、「ウルルン観た?」「素敵な宇宙船地球号観た?」と言う子供でした。今になって、ADHDのことも考えればなんとなしに原因を説明できます。

 

ADHDは自分の興味が向かない範囲には極端なまでに無頓着なんです。普通の人なら、多分自分のコミュニティで流行っているものな少なくとも注意を払いますが、私達は無いもののように扱うんです。加えて、「面白いから!」と勧められすぎると、反骨精神が顔を出して食わず嫌いを超えて憎悪するようになります。

後者はもしかしたら私の性格に起因するものかもしれませんが、こんな調子ですから、それ以降の生活では集団から一線を引いていました。集団ではなく、私が興味を持つ範囲に対応してくれる酔狂な友人達と絡むようになりました。

幸いなことに、私は興味の範囲がやたらめったらしてましたから、特定の一グループに留まるのでなく、複数のグループに入って交友関係は狭くはなかったと思います。

 

それでもやはり、多少なりの疎外感は感じていました。私が顔を出すグループは、いつも暖かく迎えてはくれますが、あくまでそれは客を迎えるような、悪く言ってしまえば上っ面のものです。勿論、彼らがそう断言したわけでもないですし、私の被害妄想かもしれません。でも、どことなく距離を感じていたのは事実です。

 

彼らを見ていてずれを大きく感じるのは高校生でした。まだ「自分は人と違う」と割り切れずに、どこか理想の高校生活を夢見ていた時期です。恋人ができて、部活ではそこそこ活躍して、後輩ができて、受験前にヒィヒィ言うような、そんな誰もが思い描く高校生活を夢見ていました。

ですが実際に送っていたのは、学校が終わればすぐに塾へ向かう、そんな味気ないものです。よく集まっていた友人達は彼女を作って、部活で汗を流して、夏祭りにはカップルで行く、高校生を楽しんでいました。

いつからでしょうか。私は彼らの背中を見て、私はあの輪には入れない、と悟ったんです。私に恋人ができても楽しませられない、部活を始めても試合に負けて悔し涙を流すほど真剣にはなれない、そんな直観がありました。

この時はまだ診断を受けていませんでしたが、周りを見ていると本質的にどこかが違うと思っていました。だからこそ、私は問いたいんです。

平均的な生き方とはなんでしょうか。

 

高校生らしい青春を送れなかったことは平均ではないでしょうか。そんな人がごまんといる、と切り捨てるなら、私の頭が壊れているのは? これは間違いなく平均ではないです。ですが、ぶっ壊れた頭を持って人並みに生活をして、仕事をしています。

これが10割の原因、というわけではありませんが、今後私は結婚をしないでしょう。子供も持たないでしょう。独りで生きていくことに抵抗はありませんし、むしろ心地いいとすら思っています。

それは平均なんでしょうか。晩婚化や独身貴族なんて言葉が最近はありますが、それが平均となるのでしょうか。あやふやなまま、誰も正解を持てずに暗闇を歩くような生き方が平均でしょうか。

 

平均が分からないと、自分の立ち位置が分かりません。

自分が今どこにいて、本来の在り方からどれだけ離れているかが計れません。

自分が分からなくなるのだけは苦手です。誰に聞いても答えがないんですから。

 

皆さんは、正解を持っているでしょうか。

平均的な生き方とはなんなのか。

 

 

ゲヘナより哀を込めて