虚勢の銀貨

東村の日々の記録

流木の指

 「結婚するんだ、私。だからもう、決めたことだから」

 西陽が差し込む喫茶店の窓際。外向きに据えられたカウンターテーブルには、今時珍しい角砂糖の入った小瓶。彩奈の指がカップを離れる。店内に流れるボサノバは緩いカーブを描いて俺の鼓膜を避けていく。

 すぐ隣に座る彩奈が笑う。自嘲的に嘲笑的に。

「あんただって、もういい歳じゃない。渡り鳥と根無し草なんて今日日流行るもんでもないんだから、もっといい女の子見付けなよ。もう、会ってあげられないからさ」

女子学生が友人に破局を吐露するような軽さで、しかしその一言一言が俺の胸に鉛となって募っていく。

嫌だ。

 そう反対できるほど、お互いが若くないことは十二分に分かっていた。三十に足を掛け、この間まで上司の背中を追っていると思っていたのに、気が付けば後輩を連れて歩く方が多くなっている。年に一度ある地元の同窓会に顔を出しても不参加が目立つようになり、参加者が減るほど既婚者は増えていった。

 どこかで安心があったのかもしれない。彩奈は俺から離れていかない。彼女には俺が必要だ。無根拠な確信は、単なる虚栄の城だった。大人のほうが恋は難しい。歌っていたのは誰だったか。矮小な自尊心の片隅が顔を上げて、精一杯の笑みを頬に上げる。学生の頃に何度も経験した一方通行だったのか。

 彩奈は喋るのも気怠そうに、右手で頬杖を突いたまま続けた。左手はテーブルの端に掛けたまま。

「私ね、東京に行くんだ。彼が青山で働くから、一緒についてきて欲しいって。美容師やっててね、やっと認められたって喜んでた。だから、札幌には多分、お正月くらいしか帰ってこられないかも」

東京。俺の同級生の幾分かも、そこに行ったまま帰ってこない。東京はいいぞ。何でも揃ってるからな。辟易するほど聞いたそんな台詞は、ついぞ俺の身体を動かしはしなかった。

 もし、もし俺もそんな常套句に乗って渡っていれば何かが違っていただろうか。常に日本の中心として語られる世界は夢の国だろうか。五メートルも雪が降らない土地は春の土地だろうか。

 流れに乗り遅れた渡り鳥は、雪の中で死ぬのだろうか。

 

 

 彩奈は綺麗だ。大通り公園に面したブティックで店員をしていた彼女に、俺は一目惚れした。今にして思えば、それまで付き合っていた恋人と別れて傷心に差した水でしかなかったかもしれないし、普段なら一目止めてそのまま素通りしていたかもしれない。

 ちょうど出張で札幌に来ていたことに託けて声をかけた。上手くいったとしても時期が来れば離れざるをえない。穴場を単勝で買うような、負けて当然の大博打。ジャックポットを引き当てられるなんて思ってもいなかった。

 仕事終わりの彩奈を待って、すすきののバルで食事を取った。仕事柄、国内外問わずに走る俺の生活は彩奈にとって刺激的なものらしく、余計な凹凸一つない端正な顔を何度も綻ばせた。彩奈は俺を、〝渡り鳥〟と評した。一つの場所に定住することなく、時期と共に街を渡り歩いたおかげで、勤める会社の周辺よりも、他の都市に詳しくなったほどだ。

 昔から口下手な俺はこの年になっても、気の利いた褒め言葉の一つも思い浮かべられない。だから彩奈のしなやかで艶やかな指を見たとき、「流木みたいな指だね」と言ってしまった。滑らかな曲線を描き水も玉にして弾く肌は、何度も荒波と川流に磨かれた流木にそっくりだったから。

 口に出してから失言だと思った。若葉や新芽に例えられて喜ぶ人はいても、折れて死んだ木のようだと言われていい顔をする者などいたものか。まして、自分よりも若い彼女に、老人趣味染みたレッテルを貼ってしまったのだ。次の瞬間にはしかめた顔で反論する姿が脳裏を過ぎる。

 しかし、彼女は笑った。侮蔑でも嘲笑でもなく、満面にほころんだ喜びの笑みを浮かべたのだ。「ありがとう、なんだか照れるね」と。思えばそのときから、俺は彩奈から離れられなくなったのかもしれない。

 軽くウェーブのかかった髪を払う仕草一つ、食材を口に運んだフォークを引き抜く様一つ、それぞれが優雅だった。カラーコンタクトをしているわけでもないのに、双眸は透いた明るい茶色で、店内の照明も相まって宝石か何かに見えた。

 女性としての俺のイデアが形を得ていた。美学に精通している学者なら、その黄金比を崩そうとはしなかったかもしれない。しかし、俺は一介の会社員に過ぎず、彩奈は二つばかり年下の、世間知らずの女でしかなかった。

 そのまま、ベッドで彼女の顔を歪ませた。店頭のマネキンに肉を着せた完璧な曲線美。それを見た瞬間には、もう俺は俺でなくなっていた。砕けてしまいそうな柔肌をきつく抱き締め、交わした口づけは何より甘かった。突き立てる度に羞恥と艶美の咆哮を上げさせるのが、たまらなく楽しかった。細い肩を掴み、身体に覆いかぶさり、遠慮も心遣いもないまぐわいは、空が白み始めるまで続いた。

 一夜限り、二人ともがそう思っていた。一度この土地を捨てて、下らない憧れに走った俺は、週末には名古屋へ戻らなければならないし、彩奈は彩奈で、彼女の日常へと帰っていく。飲み会で武勇伝として語るか、甘やかな思い出として浸るか、どちらにせよ彼女が隣にいない日常が待っている。

 出張は年が明ける頃には出向へ変わった。僅かな一時金と昇給の約束で子会社に迎えられ、誰が図ったのか、勤務地は札幌だった。二月の吐息は、北のワンルームで聞いた。

 本州を後にして、最初に考えたのは彩奈のことだ。彼女とまた会いたい、ただそれだけを考えた。のぼせ上った中学生のような思考を一笑に付してやり過ごせるほど、俺はまだ大人になっていない。

 でも、一晩の共犯者が、どんな顔して会えばいいのだろう。堪らなく会いたいと思う俺とは裏腹に、彩奈はそうは思っていないかもしれない。彼氏面をするほど器用でもないし、かといって旧友の振りをするほど図太くもない。結局、閉店までシフトを入れる彼女の退勤時間に合わせて大通り公園をうろつく始末。それでも、何たる僥倖か。一週間を過ぎた頃、彩奈は俺を見付けて、駆け寄って来た。

 雪が煙る中で見る彼女は、果たして美しいままだった。儚い冬の空気を流す肌は、ビスクドールよりも端麗で、やはり双眸は輝かしい。抱き止めた肢体はコートの厚みを差し引いても華奢で、しかし確実にそこに在った。

 どちらかが誘うわけでなく、互いにそのまま唇を重ねた。半年振りのキス。膝が震えるのはきっと、冬のせいだったのだろう。

 

 

 彩奈は去った。あの喫茶店で会った次の週末、彼女の部屋に足を運ぶも、既に空き家になっている。東京に行くと言っていたのは本当のことだったようで、電話もラインも反応はなかった。

『もういい歳じゃない』

彼女の言葉が頭の中で反響する。あれは呪詛でも罵倒でもなく、お互いの客観評価だ。今年三十になる俺と、その二つ下の彩奈。確かにもういい歳だ。同期の多くは既に家庭を持つか寿退社し、子供ができたとの連絡も少なからず受けた。

 今までみていたのは夢だ。彩奈が見せる泡沫に酔っただけだ。これが現実なんだ。一人の女が人生を変えるなんてない。変わったといえば人生ではなく、俺が現実を直視しなくなっていた、それだけ。

 彼女は去った。禍根の一つもなく、名残の一つもなく。確かに俺達は何でもなかった。恋人でも、夫婦でも。何処にでもあるような大人の火遊びの相手。それに過ぎない。

 それならそれで、せめて俺に悲劇のヒロインを気取らせて欲しかった――。

 

 

 一年が経っても出向が解除されることはなかった。渡り鳥はまだしばらく、北の大地に留まることになる。今年の冬は彩奈がいない。一人、雪積る街を歩いて家に帰っても、誰が声をかけることも、何処から連絡が入ることもない。

 酒に逃げるなんて、文字通り逃げだ。一人でいることに耐えられたから今の仕事にしたんだろう。一人でいたかったから、こんな遠く離れた土地に飛ばされることを是としたんだろう。溜息を誤魔化すように焼酎を煽り、アルコールを焼いた喉に咽る。

 店員が諫めても止めはしない。平日も休日も関係なく飲み歩き、空っぽの器に酒を注ぎ続ける。アルコール依存症の直前、もう半歩で俺が俺でなくなるところまで来ていたのに、身体は嘘を吐いてくれない。

 健康診断で桁が狂った数値が出た。

「このままだとアル中になるか、死ぬかどちらかだよ」

再検査を受けた病院で、そう言われた。いつ肝硬変を起こしてもおかしくないほどに、俺の肝臓はダメージを受けていた。処方は一言、「休肝日を作れ」。その文言に安くない料金を払って真っすぐ帰ればよかった。

 中庭を通って帰ろう、と考えたのは天啓か気紛れか。四月も終わりを迎えつつあり、ようやくこの土地にも春の風が吹いている。中心に欅が立つそこには車椅子の入院患者とカップル、診察に来たであろう老夫婦、家族連れや白衣の医師がいた。各々がそれぞれの会話をして、俺に気付く人は誰もいない。

 中央の大樹を横目に去ったとき、懐かしい名前が聴こえた。

「そろそろ戻りましょうか、藤田さん」

反射的に振り返った。その名前が藤田彩奈なはずがない。彼女は東京に行ったんだ。俺じゃない男を連れて去った。だから――。

 車椅子を押される女は彩奈とは似ても似つかない、骨格に皮を張り付けたような痩せこけた女だ。落ち窪んだ眼窩に嵌められた双眸は濃いエメラルドを思わせた。

 

 

 翌週、再検査の結果を聞くために、また同じ病院へ行った。治療が必要な症状はないが、このままではいずれ病院通いになる、と、前回とそう変わらないことを言われただけで追い出されて、金を払わせられる。

 曇天の中庭にはこの前も見た車椅子の患者と看護師。彼女――藤田さんに見舞い人はいないのか。

メジロが巣を作っていますよ」と、看護師。

 確かに見上げれば緑色の小さい鳥が枝でせっせと自分の家を作っている。これから卵を産み、ここで暮らすのだろうか。彼女は返事をしなかった。ただ正面を向き、気怠そうに宙空に視線を飛ばしている。看護師が膝を折って藤田さんと同じ目線になってから彼女の首を軽く反らせる。双眸が鳥を捉えたのが傍目でも分かる。彼女の口は動きはしないが、看護師は「そうですね」とにこやかに相槌を打った。

メジロは花の蜜を好みますから、ミカンとかを輪切りにしてあげると喜びますよ」

咄嗟に口を突いて出た。二人はいきなり話しかけられたことに驚いたようで固まった。

「鳥、お好きなんですか?」

看護師は咄嗟に取り繕ってそう返した。苦笑いを一つ、「ええ、まあ」などと曖昧な返事をして立ち去ろうとした。

 固まったままの彼女と目が合う。その透いた瞳は俺を射止めた。

 痩せこけた病人のこの女が彩奈なはずがない。だって彼女は東京に。渡り鳥の俺よりも早く別の土地に行ったのに。俺は捨てられたと酔っていたのに。

 正面から見間違えるわけもない。見る影もなくなった彼女は、彩奈はここに。自分の力で歩くことも叶わなくなったイデアは、しかし見据えれば果たして美しいままの彼女以外にあり得なかった。彩奈、彩奈。どれだけ焦がれたか。どれほど望んだか。その彼女は何も言ってはくれない。その代わりに俺は言葉にならない単語を呟き、それにメジロの囀りが重なっていく。

 膝から崩れ落ちて、細く、骨の張った手を掴む。慟哭と滂沱の滝は止められず、宿り木を探した小鳥よろしく縋りついた。身体を守る肉は少なくなっても、その曲線美が損なわれることはない。流木の美しい指は俺の無骨な手をにわかに握り返した。

そこに確かに彩奈はいた。

 

 

 ALS――筋萎縮性側索硬化症。末端の随意筋から次第に動かなくなり、最後には呼吸もままならなくなる現代の呪い。血縁のキャリアは関係なく、誰しもが共通してなり得る難病に彼女は罹患していた。

 既に喉の筋肉は衰え、声を出すことはおろか、嚥下すら不可能な状態でも懸命に生きようとしていた。治療法などなく、海外では頭部を他人の身体に移植する計画が持ち上がっているらしいが、日本で実用される前に彩奈は――。

 俺との関係を断ち切ろうとしたときには、既に左腕の自由が利かなくなり、顎にも力が入りにくくなっていたらしい。診断されてから一年半以上が経った。進行が早い人なら自発呼吸ができなくなるだけの時間は、もう流れ去った。

藤田彩奈〟のプレートがかかる病室のドアを開ける。俺と別れてから一年間、彼女は一人この小箱で病と格闘していた。進行を少しでも抑えるべく、是とされる方法は何でも試していた。

「彩奈、おはよう。今日も晴れてるよ。藻岩山がよく見える」

 閉め切られた窓を開け、空気を入れ替える。涼やかな風が舞い込んで花瓶に差したラナンキュラスの花弁を揺らす。彩奈の返答がなくても、彼女の表情を見ればそれとなく喜んでいるのが分かる。既に表情筋を自由に動かせなくはなっていても、瞳の奥で顔を変える色はまだ見て取れる。

『あ り が と』

 ワンテンポ遅れて機械音声が礼を言った。今の彩奈の喉、口、彼女が外界に反応を送る唯一のツール。衰えることのない眼球の動きで文字を選び、入力された通りに機械が読み上げるエイドキット。彩奈の声を聴くことは、もう叶わない。人魚姫のように、ファウストのように、誰かが彼女の身体から抜き去ってしまった。

『し ご と は』

ゆっくりとした入力の後で、機械が早口に読み上げる。「仕事に行かなくてもいいのか」と心配しているのか。

「いいんだよ、俺は。渡り鳥なんだから、居たい場所が居場所なんだ」

『ば か』

彩奈が笑う。表情に出なくても、眉一つ動かさなくても、笑う。

 ここに通うようになって、必然的に俺の口数は増える。彩奈の返事は遅く、間を埋めるように俺は囀る。今日はこんなことがあった。仕事でこんなミスをした。そろそろ梅雨に入る。他愛のない雑談を、彼女は静かに聞いていた。瞬きの相槌は精一杯の意思表示。

 思い出話も増えた。彩奈がいなくなった一年間の思い出、二人で過ごした回想、これまで俺が飛んできた場所の独白。渡り鳥の話は、横たわる姫を楽しませただろうか。

 気が付けば、彩奈は酸素チューブなくしては生きられない身体になっていた。

 北海道の短い夏が終わろうとする頃だった。

 

 

 九州に今年七番目の台風が上陸する頃、生まれ持った自由のチケットは、彩奈の手から易々と剥奪された。残っているのは目の動きだけ。呼吸はもとより、これまでは微かに残っていた指先の動きも、今では芯の抜けた枝葉になっていた。

 夜の帳は早々には下りない。短針が六の字を過ぎても太陽は西に傾くばかりで、その姿を消そうとしない。陽の光と不釣り合いの涼やかな風。ここの夜は夏といってもぐっと冷える。

「そろそろ窓、閉めようか」

彩奈の姿勢を変えながら聞いた。自分で寝返りを打つ力も残されず、二時間に一度は俺が変えてやる必要があった。俺がやらなきゃならなかった。

 これまで彩奈の家族は誰一人見舞いにやって来ていない。家族について尋ねたことはあったが、はぐらかされたまま、再びは訊けなかった。文字通りの根無し草。俺と同じように本州からここに移ったきり、親族と連絡はとっていないようで、電話はおろか、メール一つ届かない。

『も う す こ し こ の ま ま』

 折り合いが悪かったのかもしれないし、図り知るにおこがましい事情があるのかもしれない。俺のようにくだらないプライドで生きたのかもしれないし、単に独りが好きなこともあり得る。家族から、友人から、恐らくはいたはずの過去の恋人から、何もかもから自身を切り離してここに来たのだ。そして、今や彼女は身体を捨てようと試みている。五感を残して、根無し草は空を飛ぶ風を見失った。残った流木の指の、艶やかな曲線だけが目に苦しい。

 

 

 『ね え わ た り ど り』

彩奈が呟いた。ひどく小さくて、風が吹けば消え入りそうな響きだ。

『つ ぎ に わ た し が た の ん だ ら』

目を見られずに、傍らに腰を掛けて指を絡める。無骨で堅い指と滑らかで硬い指。自分で動かせない筋肉は徐々に衰えていく。芯を飾る肉はそげ落とされて、中に何が入っているかをまざまざと見せつける。

 雨が強かに打ち付ける音と、彩奈を懸命に留めおこうとする機械の音だけが聴こえる病室。壁の白はここには不釣り合いだ。全てを吸い取っていこうとする、むら一つない塗装が気に食わない。靴の擦り跡が気に障るリノリウムの床、消毒液の芳香がにおう廊下、防災用の鉄線が入った窓はまるで牢獄だ。

『こ れ を と め て』

聴こえないふりをする。狸寝入りでもいい。流木の指を柔らかく握って、視線は上げない。〝これ〟が何を指すのか、顔を上げてしまえば予感から実態に変わる。

 俺は何も聴いてない。何も頼まれていない。

 今までも、これからも、俺は彩奈の傍にいる。一度離れてしまったのだ。

『き い て る の』

かぶりを振った。俺は何も聴いていない。これは彩奈じゃない。機械が真似しているのだ。

『わ が ま ま だ と お も う け ど お ね が い た く や に し か た の め な い の』

視線が伏せた顔に突き刺さる。

「俺は、嫌だ。何処にもいってほしくない」

絞り出した声は、ともすれば青二才の妄言で、今の彼女を何一つ顧みていない。

『わ た し は ね な し ぐ さ だ か ら ず つ と は い ら れ ない よ』

自嘲の笑みは似合わない。そんな顔はしないでくれ。

 指の細さは彼女の身体全てに感染していくように、腕から、脚から、彩奈という一人の女性を覆い包んでいたものを奪い去っていく。鎖骨は艶めかしいアイコンではなく終わりを告げる呪詛に、頬は笑顔を飾る武器ではなく痛ましい溝に。傍目で見れば、もう彼女は美しい女ではなくなった。痩せ細った、弱弱しい病人に変わった。

 しかし、しかしそれでも俺は相も変わらず彩奈を綺麗だと思えた。外見でも、喋り口調でもなく、その中に身を隠す根無し草が根無し草たる所以の、正にその根を愛おしく思う。彼女が、吹けば飛んで消えてしまう根無し草なら、俺は根になろう。代弁するための口になろう。挨拶を交わすための手となろう。代わりに歩く足になり、代わりに感じる肌となり、代わりに食らう喉になり、彼女を繋ぎ止めるための楔になろう。

 だから、だからそんな目をしないでくれ。

 

 

 彩奈の病室に通い詰め、会社にもろくに顔を出さなくなった。最後通牒のメールを無視し、実質クビを宣告する書面に判を叩きつけて送った。十年近く続いた俺の生活の一つが崩れていった。

 瓦解の音は聞こえず、耳に鳴るのは今日も今日とて小箱に響く強制的な呼吸音。

渡り鳥は渡る先を失った。帰る場所を失った。今この場所の他に、居られるところはもうどこにもなくなっていた。それでも後悔など欠片もなかった。彩奈に触れ、彩奈に語り、彩奈の横に座るだけで満たされたんだ――。

『き よ う は ま ん げ つ な ん だ よ』

 快晴の夕暮れに、白を取り戻した月が泳ぐ。短い夏が終わりを告げる風は、薄く開けた窓から誘われて来る。

 彩奈の布団脇まで引き上げて窓辺に立つ。太陽が姿を消してもなお明るい黄昏の時間。世界が青いベールに覆われて、人の後に伸びる影は形を失う魔法の時間。確かに月は見事な円形で、西の空に存在感を放つ。

『ね え つ き が』

「そうだね、本当に綺麗だ」

 短い夏が終わると、駆け足の秋が来る。後ろを振り返らない少年のように、目の前を走り抜ける秋が。気の早い鳴き虫の声が聴こえる。澄んだ風鈴を思わせる夏の終わりが、窓の外から顔を出す。

『わ た し ね き よ う な ら し ん で も い い わ』

彩奈の声は、機械が、俺ではなく肉の響きを持たない無機物が代弁する彼女の声は、ともすれば充足感と不可分の旋律だ。

『だ か ら ね お ね が い』

 細い指に力が入った。随意筋はもう一つも動かせないはずの彩奈の手は、確かに俺の手を握った。「お願い」。彼女の声が耳元で泡沫にこだまする。

『た く ま に し か や つ て ほ し く な い か ら』

 嫌だ。その一言が出て来ない。顎に鉛が融け混ざったように重く、返答も、かぶりを振ることもできない。ただ、その双眸に乞われるままに頷くしか、彩奈の最期の頼みを聞くことしかできなかった。

 今更撤回などしないと知っていながら、「本当にいいのか」と訊く。

『お ね が い や つ て』

病室のスライドドアに、点滴台で閂をする。引いても微塵も動かないことを確認して、また彩奈の傍らに腰を下ろした。

「ずっと、ここにいるから」

声はない。ただ上下に動く瞳が、その返事を物語る。

 彼女の頬を伝う雫は、恐怖ではなく安堵であってほしい。

 彼女の身体から、そのイデアを侵すチューブを引き抜く。気泡が粘液を通る音がする。此岸に留まるための命綱は、俺の手の中で頼りないほどの柔さで折れ曲がった。

 彩奈の肺は、存外の速さで動きを止める。呼吸は止まり、体内に残った空気が、身体の重さに押されて追い出されていく。心電図は姦しい警告音を響かせ、駆け付けた看護師か医師が扉を破ろうと躍起になる。

「彩奈、愛してる」

また、手を握り返される。強く、強く――。

 それを皮切りに、俺の手から、彼女の身体から、俺の心から、彼女だった瞳から、彩奈がこぼれていく。ゆっくりと、緩慢に、しかし確実に、去っていく。

 彩奈が彩奈でなくなっていく。

 ありがとう、一緒にいてくれて。

 流木の指が握った暖かさは、いつまでも俺の手の中に残ったまま――。