虚勢の銀貨

東村の日々の記録

死にたい→生きていたくない

 いきる――とはつまりどういうことか。何を指して、何を表すのか私には判らない。

 「生きる」という自動詞は意味が曖昧すぎる。一般的に対極と考えられている「死ぬ」と比較すると、より明瞭に不可解さを考えられる。

 「死ぬ」とは何がしかの領域内で活動を持続できない不可逆的な状態へ陥ることを指す。ペンであれば「文字をかくことができない状態」、グラスであれば「水もしくは液体を内側に留めておけない状態」、役者であれば「役を演じることができない状態」、機械であれば「機能できなくなった状態」だ。これらの共通項は何か。本質が自明であることだ。ペンは筆記具として生み出され、文字や図、何かを書いて記すことが目的である。グラスなら、不定形の液体に形を与え、それを留めることだ。

 では生き物ではどうだろうか。動植物は後世へ遺伝子を残すために日々生活し、繁殖し、やがて代謝機能を失って死亡する。しかし、肉体の最後が死ではない。動植物のコミュニティにおいての至上命題は「後世へ種を残す」ことではないか。その意味では、繁殖する能力を失った時点で死んでいる、といれるのではなかろうか。

 何故こんなあやふやな言い方をするかと言えば、動植物の死に関して私自身が明確な答えを(個人差はあれど、少なくとも自分自身が納得のいく答えを)持っていないからだ。私の実家には猫が三匹いる。彼らは勿論、かけがえのない家族だ。と、同時に彼らは去勢手術を受けている。つまり、後世へは種を残せないわけだ。そうなった場合、彼らは死んでいるのだろうか。または、「家族は別」とみっともなく例外を提唱するのだろうか。私はまだ、この問題へ答えが出せていない。

 

 さて、動植物の際に現れる混乱は示した。ではより面倒になり得るものへ手を伸ばしてみる。つまりは人間へ、だ。何故人間の死についてが面倒なのか。それは理性などという混沌の源泉を内に抱えているからだ。本能へ従順な野生ではまだ、先に挙げた「コミュニティへの本質を果たせない=死」と断じることもできる。だが、その本能を調伏する武器が、自身と浅ましいまでに深く結びついてしまっている現状で、同等までに引き上げた議論ができるだろうか。

 まず、理性なるものを定義しなければいけない。これ一つで何年も槍玉に上げられるゴルディアスの目を、私程度の者がこんなブログ上で断てるなどと夢にも思っていない。ただ、私の考えを先に進めるために仮として置くだけだ。

 理性とは、私の考えでは言葉そのものだ。日本語や英語、紙に書かれた文字、電話から発せられる音声、それらのことではない。事象へ名付けをし、イデアへと押し上げ、形而上と形而下を繋ぐ梯子となる言葉のことだ。この梯子は各々形が異なっていることがある。それが俗に言う独善的唯我論――クオリアの問題だ。私が言葉を用いて、「赤」と口にしたとして、その赤が聞いた者と同じ赤であるかどうかは判らない。しかし、ある一定の不明確さと反面に映された正確さを持って私が発語した「赤」は伝わる。少なくとも、「赤いペンキ」と言って、青いペンキを出されるようなことはない。

 これこそが言葉の危うい面であり、同時に武器にもなる。例を出すまでもなく、直截的に意図が伝わらなかったために起きた過ちは数知れないことくらい、想像に難くない。だが、私達はそのあやふやなものを使って日々語らい、時に残し、愛を謳って生活を重ねていく。

 不明確なものでそれができるのは、お互いに理性が、言葉が宿っていると仮定できるからだ。相手が自分と同じものを扱えると考えられるからだ。私達は、人間と認めた相手に理性が宿っていると信じて疑いはしない。

 

 それならば、つまるところ理性の「本質」とは何だろうか。森羅万象を定義するために使われることだろうか。それとも、その定義したものを他者へ伝達することだろうか。前者であるならば定義できない状態――死とは何か。

 眠っている人は能動的に理性判断を下すことはできない。ならばその人は死んでいるのか。確かに死は「何がしかの領域内で活動を持続できない不可逆的な状態へ陥ること」と私は定義した。睡眠は朝が来れば覚めるから死ではない、という反論が見えるが、果たして本当にそうだろうか。睡眠が覚めると誰が決めた? 揺り動かせば覚めるか否か実証はできるが、指を触れ声をかけない限り確認することは不可能だ。であるなら、睡眠中は死んでいるかもしれないし、生きているかもしれない、という重ね合わせの状態と言うことも可能ではないだろうか。敢えてここでは量子論の話にはもっていかない。文字数もさることながら、私の体力がもたないからだ。

 

 さて、では後者の場合はどうだろう。伝えることこそが理性の本質、だがこれも正確ではない。伝える、という行為は伝わる先がないのであれば成立しない、相互のプロセスだ。ならば、絶海の孤島に独りで生活している人は伝える先がないことから、死んでいると言ってしまっていいのだろうか。「草木に語りかける人も……」確かにそれもある。なら、砂漠のど真ん中を彷徨う人はどうか。砂は無機物であり、草木すらない砂丘に取り残された人は、その時点を持って生者から死者に変わるのか。これも否だ。伝えられないから死に直結するのではない。理性を持つ人間としての死は何処にあるのだろうか。

 

 私は極論が好きだ。極論は時折詭弁と同義に扱われるが、そんなことはない。私の言う極論とは不要なものを極限まで削り落とした論のことだ。1+1=2、この数式に似た明快さを持ち、同時に次の疑問への扉を開けてくれる。1+1=2だが、2=1+1ではない。1.5+0.5でも1+0.5+0.5でも2になり得るからだ。

 死や生といった極点の話は極点であるが故に余計なものを付随させる。感情や背景や事例などなど。だから私は何があっても崩されえない、極論による記号のやり取りのような話で進めようとした。

 しかし、当初の想定通り、この程度では答えなど出ない。死の定義が違うのか、前提となる条件が違うのか、少なくとも今後、まだまだこの一語だけで遊んでいけそうだ。

 

ゲヘナより哀をこめて