虚勢の銀貨

東村の日々の記録

外野から喚く泥人形

 私は他人、と言いますか誰かと接するとき、その人の現時点でできるだけ判断するようにしています。実態は正直なところそれができているか分かりませんが、可能な限りそうあろうと努めています。

 「過去がその人を形作る」って言葉があるじゃないですか。私これ嫌いなんです。私自身が過去にいつまでも捉われて惨めに生きているっていうのもありますが、過去に、つまり現在でない過ぎたことがいつまでもタグとなってその人を標榜するって変な話だと思うんですよね。

 多分、私の極個人的な願望でしかないと思うんですが、どうしてもそうありたい、そうあってほしいと思うんです。

 

 普通、現在から未来へ目を向けた時に判断材料となるのは過去ですよね。昔こういう実績があるから、以前こういう経験をしたから、前からの頑張りが評価されてこんな資格があるから、そんな理由で未来のものへ対してある程度の予測を立てるじゃないですか。

 これもおかしな話ですよね。未来の話をするために過去の話をしないといけないんですから。ただ、世の中の大半はこうあるはずです。皆さんも経験があるでしょう?

 OO大学を出たから勉強ができるはずだ、△△ができたからXXもできるはずだ、・・で働いでいたから●●に詳しいはずだ、なんて言われた経験はありませんか。別にこれが間違っているってわけじゃありません。完全な未知に対して帰納的って言うんでしょうか、推論を立ててアプローチするのは間違ったことではありません。ですが、私が嫌なのはそれに凝り固まっている考え方なんです。

 「カフェで働いているのにコーヒーの産地の違いが分からないの?」「本が好きなのにこれ読んでないの?」って言われるじゃないですか。私も同じような論法で「あ、そうなんだ(笑)」と下に見られたことは何度もあります。私からすれば「日本に住んでるくせに日本神話全く知らないの?」「バレンタインに一喜一憂するくせに聖ワレンティヌスについて何も知らないの?」ってなりますよ。

 まあ勿論、個人によって知識や技能は上下左右するので適宜アップデートするのが普通じゃないですか。過去がそうだから、前提にこれがあるから、で全容を判断するのは愚の骨頂ですよ。言及しているのは現在であって過去ではないんですから。

 

 さっきから、「普通」と書いていますが、これ、私が最も嫌いな言葉の一端でもあります。「普通」こそ過去判断の最たるものじゃないですか。過去の何かしらの結果や結論、経験の総体を平均化してたった三音の語にまで貶めたものが「普通」です。しかもこの普通、タチの悪いことに世間一般では正義として成り立つんですよね。「普通なら20代後半では結婚して、30過ぎくらいに第一子を設けて、40くらいには家を建てて、50代では役職持ちになって、60で定年を迎えたら悠悠自適な老後を過ごして」、これ、高度経済成長期バブル期に跋扈した産廃共が描く”普通”です。少なくとも現在を生きる私やその前後の世代にはこれ全くヒットしないんですよね。普通じゃないんです。でも、今世間を牛耳ってるのは先の死にぞこない共ですから、時代遅れでカビが生えた普通を押し付けてきます。

 やっと最近ハラスメント系の問題やダイバーシティ働き方改革なんて叫ばれていますが(言葉面に先導される無能主導の政策や改革なんて成功するわけありませんが)根底にあるのはこの思想でしょう。

「普通じゃない人達を受け入れてあげよう」

 なんとも傲岸不遜で腹立たしい考え方ですが、現実はそうなんです。普通じゃない、過去は黙殺されたり、本人が抑圧していたり、そういった方々の権利をしゃーなしにみとめてやろうかって動きなんです。

 

 正直なところ、ダイバーシティLGBTなんて、私からすれば取るに足らない問題なんですよ。別にそのタグが付く方々を無下にしているわけじゃありません。先にも言いましたが、「個人を個人として、その人の現在で判断する」これができさえすれば別に何も問題も発生しないじゃあいませんか。身体が女で心が男、男だけど男が好き、日本とアメリカのハーフでアメリカ国籍だけど日本で働いている、女だけど最強のマネジメント技術がある。私からしたら「で?」の一言です。その人はそういう人、それだけじゃないですか。

 この判断を鈍らせる普通なんて、必要ないじゃないですか。

 

 私はね、多分普通に憧れているんです。普通に高校に通って、普通に部活をして、普通に青春っぽいことをして、普通に大学を卒業して、普通に流行りものを受け取って、普通にテレビを見て、普通の会社に入って、普通に結婚して、普通にそれなりに苦労や悩みがあって、その分普通に幸せを享受できて、多分普通に何の疑いもなく永遠の愛を誓って、なんてそんな普通の生活に憧れていたんです。

 でも、さっきもいったようにこの世の中、過去の実績で判断されるし、それが正しい世界なんです。そう考えると、私に「普通」の人生なんて望めるはずもないんですよね。いつから間違ってしまったか、病的な天邪鬼で傲慢無知で人様に言えないことを数えきれないほどしでかしてきました。過去を基盤に今が成り立つなら、私の今までの人生を基盤に成り立つ今もこれからの人生も、きっとろくなものになりません。こういうのを仏教では因果応報と言うんでしょう。

 

 酸っぱいブドウですよ。どうせ手に入らないならいつまでも焦がれていないで、いっそのこと憎悪の対象にすればいい。そうしないとケツを拭く紙にもならないくだらない自尊心が保てないから、私は私を批判して否定する過去を否定しますし、普通を否定します。

 私は人間様ではなく泥人形に過ぎませんから、劣等感を目の前を状況を変えるための活力にするなんて高尚なことはできません。普通から外れて、恨めしい目でギャーギャー喚くしか能がないですから、今後もそうやって、どんどん周りから構っていただける人間様がいなくなって、独り惨めに朽ちていこうと思います。

 

 皆さんはきっと人間様ですから、私の二の舞にはならないでくださいね。きっと皆さんなら幸せになる権利の能力もあるはずです。

 

ゲヘナより哀を込めて。

メメントモリ

 死ぬって、そんなに悪いことでしょうか。私もこの年まで生きてきて、色んな人と話してきましたし、色んな作品にも触れました。様々な主義主張を見てきましたし、数多くの意見も耳にします。その中で、大多数を占める意見として「死ぬ=悪いこと」って前提が多すぎるんじゃないかなって思うんです。

 

 そもそも皆さん、死ぬことについてどう考えているんでしょう。こう考えた時にね、「死ぬ=悪いこと」と信じ込んでいる人は、当の死については多分、何も考えていないんじゃないかなと思うんです。生きることに盲目的になって、死ぬことについて考えるのを放棄して、「生きなきゃいけない」って強迫観念に駆られているだけじゃないかなって思うんです。

 私が感じていることも極観念的なことですから、伝わりにくいかもしれませんが、とりあえず、いたずらな死についてのネガティブイメージを払拭できるよう書いてみます。

 

 死ぬって、終焉ですよね。終わり、ピリオド、結末、終着点、言い方は何でもいいですが、そんな感じでしょう。では何に対する終焉なのか。それはきっと生存でしょう。生きて在ったものが、死して亡くなるんです。生きたものの終着点、それが死です。生きるのが終わるって意味です。

 ただ、これってそんな悪いことですか? 生が善くて死が悪いんですか? 何故?

 森羅万象、必ず終焉を迎えます。ここを見る人の特性上、物語の例を取りましょうか。物語は必ず終わります。それが一冊という形なのか、全シリーズという形かは視野によりますけど、皆さんが手に取る物語には必ず終わりがあります。むしろ、終わりのない物語を手に取ることはできない、と言い換えた方が正しいでしょう。ある程度の完結の形を取らないのは、つまりそれが未完であって、人の手に渡る価値がないと見做されるでしょう。

 物書き界隈でこんな言葉を聞いたことないですか?

「未完の傑作より、完結した駄作」

 作品は何らかの形で終わりを持ってこそ、作品としての命を持つんです。言い換えれば、「死んだからこそ意味がある」ってことなんですよね。

 さて、ならこと命の場合はどうでしょう。この論理、私は生命も物体も問わずに当てはめられると考えています。つまり、「人間は死ぬからこそ意味がある」って感じですね。些か乱暴ですか? 観念的なことなので説明は難しいですが、なんとか頑張ってみます。

 

 「生」の二項定理には「死」が挙げられることが多いでしょう。ほとんどの人もそうするはずです。なら、敢えてこの「死」を取っ払った「生」があるか考えてみます。終わりのない生、それはつまりその状態がずぅっと続くってことですね。すなわちそうなってしまうと「生」は「停滞」へと変化していきます。これ、私は例でよく出すんですが、ペットボトルを思い浮かべてください。ペットボトルは生きているでしょうか。勿論、NOですね。ですが先の論理を思い出してください。「ペットボトルは生きていない」の命題の論拠となるのは、「ペットボトルが生命活動をしていないから」ではなく、「ペットボトルはそのままの状態を永遠に保つから」、つまり停滞しているからなんです。外的な要因として、力を加えたり熱を放射したり冷凍したりしなければ、ペットボトルは半永久的にその形態を保ちます。つまり死が訪れない。生の終焉としての死を迎えないから生きていない。こんな調子です。面白いですよね。これが通るってことは、先に挙げた二項定理も瓦解するんですよ。死がない生が成立しないなら、死の存在は生の前提条件となるわけです。

 死ぬからこそ生きたというパラドックス

 私達は、今現在を生きていると言われている私達は、私の論理を正とするなら生きてはいないんです。何せ死んでいないんですから。

 

 私が死を悲観や忌避しない理由はここにあります。現在からの、現世からの解放という意味だけではなく、私という一泥人形が確かに生存していたことを、少なくとも私の論拠上では、死ぬことによって初めて成立させられるんです。今の私ではただ「存る」だけ。これを生存という形に昇華させるには一度死ぬしかないんです。死が生の対極ではなく、前提条件であるなら、そこをクリアしないことには目標には手が届きません。

 

 一般的に忌避される死は、その実、生をいう形態を確たる土台を持って固定するための通過儀礼に過ぎないんです。その副産物として今生の別れや完全な終焉が訪れますが、そんなことは些末なものでしょう。何よりも、一個人がそこに「生きて」「存った」ことを決定することが、ただ「存る」だけではなく確かに「生きて」いたと語られることこそが、死の持つ何よりも価値のある効能だと私は考えています。

 

 どうでしょう、こう考えると、死についてのネガティブなイメージは多少なり変わりませんか?

 確かに何者かと別れてしまうことは悲しいですが、それは視点を変えれば、そこでその人が生きていたことの証左にもなるわけです。死を悼むくらい特別な人の生が確定したこを、何故そんなに悲しむ必要がありましょう。

 これが私の、宗教にもカルトにもよらない死生観です。

 

ゲヘナより愛を込めて。

 

近況報告

 ちょっと実験的に目次作ってみました。

 

ボルダリング

 最近、ボルダリングを始めました。あれ、結構身体中の筋肉や体力使うんですね。翌日は必ず筋肉痛になります。まあ、普段運動らしい運動していないので、ちょうどいいのかなって思います。

 まだまだ下手ですけど、やっている分にはとても楽しいですよ。大体3~4mの壁を自分の力だけで登っていくことって、トレッキングや登山をやっていてもそうそうないじゃないですか。しかも、私はまだまだ下手なので垂直か多少傾斜がある壁しか登れませんが、上級者や中級者は本当に迫り出している壁を登っていますよ。こう言うと、「そんなの登れるなんてゴリゴリのマッチョな男だけでしょ」って思われるかもしれません。実際私もそう思っていました。でもね、実際見てみると男性も女性も、年齢も関係なく上手い人はとっても上手いです。私より若い女の子が身軽に登るのも、私よりはるかに年上の男性が怒涛の勢いで登っていくのも目にします。私もそうなってみたいです。

 やっぱり身体を動かすのっていいですね。頭脳労働の後の疲労感も嫌いじゃなですが、汗を流して筋肉が限界を迎えつつある疲労感も好きです。私、今でこそ線が細くて頼りないですけど、昔は陸上やってたんですよ(靭帯を壊してからは運動自体あんまりしてませんでしたが)。だから運動、特に無酸素運動は結構好きです。この年になってから新しく始めることになるとは思っていませんでしたが、続けられる限り続けようと思います。

 

グリシン

 グリシンって聞いたことありますか? 非必須アミノ酸の一種です。薬学や栄養学的な説明は省きますが、20種類のアミノ酸のうち最も構造が単純で、人体を構成するためのいろんな栄養素の原料になるものです。コラーゲンってあるじゃないですか。美容目的で用いられてお肌プルプルにするって言われているあれです。コラーゲンの1/3はグリシンなんですって。

 そのグリシンを最近買ったんです。粉末で、プロテインみたいな袋に入っていて付属のスプーン一杯を水に溶いて飲むって感じです。なんで単なるアミノ酸、しかも非必須アミノ酸を粉末で買ったか、なんですけどね、このグリシンには睡眠の質を高める作用があるそうなんです。味の素が出しているグリナってサプリありますよね。あれもグリシンを元にしたサプリメントです。他にもサプリは色々ありますが、口コミやレビューがピンキリなのでどうせなら、とグリシン100%の粉末を購入しました。勿論プラシーボ効果の可能性は否めませんが、体感としては効いていると思います。

 私、睡眠障害とまで言っていいか分かりませんが、睡眠に難ありなタイプなんですよね。ADHDの関係で睡眠中も脳は稼働状態のようで、夢はしょっちゅう見ますし寝起きに倦怠感が残ります。寝不足なわけでなく、ヘトヘトで寝不足な起き抜けと全快で8時間睡眠取った目覚めの体感はほぼ変わりません。筋肉疲労が残るかどうか、くらいですね。頭の回転には関係ないです。どういうことかっていうと、脳は常に寝不足状態なんです。PCで例えるなら、何もない人の睡眠が休止状態orシャットダウンだとすると、私の睡眠はスリープかロック状態なんですよね。充電の消費はどちらにしても抑えられますが、後者は微量ながらも消費していきます。

 まあそんな状態ですから、端的に「質の悪い睡眠しかできていない」ってことです。私はまだ、睡眠を必要としない選ばれし人類ではないですから、日々のパフォーマンスにも影響が出てきます。ここしばらく、大分ネガティブなツイートが目立ったかなと思います。ごめんなさい。私としても、これはあかんなとは感じていましたから、とりあえずネガティブに引き込まれる原因を一つ一つ潰していこうと考えて、睡眠の質の改善に乗り出しました。

 結構ちゃんと効いてるって認識はあります。一週間くらい飲み続けて、目覚めのすっきり具合が全く違います。普通の人ってみんなこんな感じなんですね。そりゃ朝元気に挨拶もできますわ……って感じで、いつもより気持ち良く目覚めてます。布団から抜け出したくないことに変わりはないですけどね。元がアミノ酸なので、常飲しても抗体?はできにくいのかな、と思いますがあんまりどっぷり嵌るのは悔しいのでほどほどにしますが、これは皆さんにもおすすめできます。1kgあたり1000円くらいなので、いきなりはとっつきにくいかもしれませんが、睡眠に問題を持っているor朝すっきりしない日が続いているけど、病院にかかったり薬に頼るのはなんか嫌って人にはいいんじゃないでしょうか。

 私が実際に購入したもののリンクも張るので、良ければチェックしてください。

 

プロット

 最近、ようやっと腰が動くようになりました。ちょっと前までは仕事終わりに頭を再起動してプロットをやる、原稿を書くってことが凄くしんどくて、家に帰れば床でぐったりした後に家のことして寝るって感じでした。休日は休日で遅くまで寝て、ちょっと買い物行ってカフェで本読むくらいが精一杯な生活でした。まあそんな生活続けていれば愚痴っぽくもなりますよね。メンタル状況は全快とは言いませんが、ある程度動けるくらいには回復しています。

 ですから、仕事終わりにプロットやったり、休日に時間を確保したりとできるようになってきました。大体仕事を終えて19時手前、そこから21時まで営業しているカフェでプロット、そんなサイクルになりつつあります。勿論、まだまだ時間が少ないことは自覚しています。これに執筆が乗ってきたら更になくなるでしょう。でも、言い訳になるかもしれませんが、毎日(といかずともできる限り毎日)少しでも進めることに意味がある、と思いたいじゃないですか。だから可能な限り時間を割くようにしています。

 そうするしかできませんから。

 

 以上、私の近況報告でした。

 

 ゲヘナより愛を込めて。

今日も生きてしまった

神戸は良い天気です。

こんな日にも会社に来ています。

トイレの窓から見える、国道2号線はバイクが走っています。

やりたくもないことをするために、これから5日間を使います。

もう何もしたくない。誰にも会いたくない。何もない場所に行きたい。

大人になっても人生はつらい?

 社会人になって得たものってなんですかね。

 多分、このブログを読まれてる皆さんは社会人がほとんどでしょう。学生の方はもういないんじゃないかな。少なくとも、私のツイッターからリンクを飛んでくる人はみんな社会人、というよりは学生ではないですよね。サラリーマンもいれば、主婦(主夫)の方もいて、フリーターの方もいて、まちまちでしょう。

 

 皆さんの社会人、もとい高校や大学といった庇護される領域を巣立ったあとに出会った世界、社会なり職場なり色々あると思いますが、そこで得たものってなんでしょう。

 私はね、諦め方だと思うんです。割り切り、納得、溜飲の下げ方、なんでもいいですが、結局のところ目指した何かを諦める方法を最も深く身に付けたんじゃないかなって思います。例えば、就職する前、私は【定時に出社して、残業しても一時間くらいで、帰りにカフェ寄って本読んで原稿やって、休日には少し遠出して、年間50万でも貯金して】なんて生活を夢見ていました。入社してひと月で悟りました、こんな生活は無理だって。

 まず給料、額面が20万あったとして諸々の税金や死にぞこないを養うために強制の年金、保険等を抜くと15万少々。そこに水道光熱費、洗剤や常備薬といった日用品、仕事で使うものを買って、食費やら飲み会代やら何かとかかって、平日遊べない分休日に遊ぶとまた金がかかって、残るなんて微々たるものですよね。病気やら故障やらで突発的に何かが必要にもなりますし、まあ何が言いたいかって、毎日カフェに行ってコーヒー飲んでくつろぐほどの資金的余裕はないんですよね。一番時間に余裕がある一年目なんて特に。

 しかも最近は朝起きて仕事に行って、帰ってきて床で横になれば気付いたら朝です。私の家、ロフトに布団引いてますからそこまで上がるミッションがあるんですよね。正直そこまで体力ないです。だから、正に今日も床で起きました。

 そこに付随するもの、ではないですが、やっぱり時間がないですよね。後輩には「時間は作るもんだよ。多少無理してでも」なんてこれ見よがしに言っていますが、当の私はそれを捻出できずにいます。やりたいことがあっても、圧倒的に時間が足りないと感じています。例えば、旅行に行きたくても、まず一週間やそこらなんて無理でしょう。年末年始やお盆は実家に帰ったり墓参りに行ったりですし、GWも高くて行けたもんじゃないです。企業によってはリフレッシュ休暇なんて制度もありますよね。年間休日と有給とは別に何日間か休める制度。私のところにもあります。ありますけど、取れるのは入社10年目とか20年目とか、所謂節目の人だけです。要するに「10年間はリフレッシュなんて必要ない。10年間馬車馬のように働け」ってことなんでしょう。曲解し過ぎですかね。

 私の会社、有給は取れはしますが「その分の調整や責任は自分で取れよ」ってスタンスですから、今回のお盆の帰省でも会社用のPCを持って帰りました。別に実家でゴリゴリ仕事をするわけでもないですし、実際今回緊急の用件は入らなかったんですが、持っていないと何かあったんじゃないか、と怖くなります。リフレッシュ休暇の人もそんな感じです。リフレッシュ休暇中にメールを出しても返ってきますもん。家や旅行先でPC開いてるんです。何のためのリフレッシュなのか。

 

 休みだけじゃなく、きっと今の社会人、社畜、企業戦士(笑)も入社前は何かしら漠然としたイメージやビジョン、目標はあったでしょう。何歳までは結婚するとか、何歳までには家を建てるとか、最近でしたら何歳までには海外赴任を経験するとか、何歳でいくらの年収までいくとか、そんなものです。でも、それを妥協せずに達成できた人って、達成できたものが一つでもある人ってどれだけいるんでしょうか。勿論、入社前の想像なんて希望的観測に基づいた虚妄と大差ないですし、実際現実を知ってから下方修正することだってあるでしょう。職場との往復で出会いがない、思った以上に給料は上がらない、人事希望がほとんど通らない、そんなものはごまんとあります。そういうときには人は諦めるんでしょう。「こんな目標を立てた俺/私が無謀だった。現実は辛くて厳しいからもう少し”現実的な”目標にしよう」みたいな感じで。

 

 だからね、私は今働いている人達が、社会に出るにあたって一番身に付けたスキルは「諦める方法」だと思っています。「そんなに休みは取れない」「そんな無駄遣いする余裕はない」「そんなことは時間の無駄」「そんなことは現実的にありえない」なんて、いろんな理由を付けて諦める方法を確立していきますよね。かく言う私もそうです。

 今回のお盆、楽しかったんですよ。バイクで神戸から埼玉まで帰って、恩師が開催する哲学カフェに参加して、旧友と会って、ゲストハウスの人とたくさん喋って、ずっと行きたかった廃駅に行って、とっても楽しかったんです。土曜日の夜中に神戸に戻ってきましたけど、そうするとやっぱり寂しいんですよね。いや違うな、なんて言うんでしょう、寂しさも混ざって、同時に辛くなるんですよね。だって、もうあんなに長い間バイクに乗っていろんなところ回ってってできないじゃないですか。夏の間にあんなに長い休みってもう取れないなじゃないですか。私がこれからしなきゃいけないのは、また毎朝起きて、会社に行って、したくもない仕事で日中を浪費して、神経擦り減らして、自分が悪くないことで謝って、客に振り回されて、家に帰れば倒れ込むように寝て、次の日の仕事に備えて、せっかくの日曜日でも「明日仕事だから」とセーブして、そんな生活なんですよね。もうそういう生活だってこと、きっとどこかで諦めているんです。「社会人だから」「生活があるから」「親に面倒かけられないから」「周りはちゃんとやってるから」「職場の人に迷惑かけるから」、だから私がやりたいことなんて二の次三の次にして、「コーヒー飲んで煙草吸ってれば大丈夫」と誤魔化しながら、まともな人間様のフリを続けなきゃいけないんです。

 

 笑っちゃいますよね。私が今生きてるのは私の人生のはずなのに、私ではなく他の人間様に気を使って生きているんですよ。職場で一日を消費するのに、何週間も先の、たった40時間を楽しみにするしかないんです。

 そろそろ頃合いなんですかねえ。

 

ゲヘナより哀を込めて。

規定された自由

 私ねえ、表現の自由をはき違えた馬鹿は嫌いなんですよ。

 表現の自由って、文字通り一応のところ、自由ではあるんです。ただ、憲法でも言われているじゃないですか。「公共の福祉を害さない限り」って。私は法曹系の専門家ではないですから厳密なことは分からないですけど、多分解釈がものすごく割れるものじゃないかなって思います。

 何処までが公共で、何処からが非公共か。社会性動物の人間ですから、完全に個と群を切り離して考えることは難しいでしょう。今の時代、部屋に一人で引きこもっても何かしらの形で社会や群と繋がってしまいますからねえ。

 

 察しのいい方なら今回の記事が何についてか分かるでしょう。ええ、そうです。今散々騒がれている愛知の美術展についてです。

 〈表現の不自由展〉って銘打っているあれ、最初中身を知るまでは、例えば第二次世界大戦下の日本で帝国軍の名の元に黒塗りされた教科書や、それこそイチャモンに近いクレームを受けて放送禁止になったCMなど、そんな「そうは意図してないけど結果的に一線を越えていると判断されてしまった創作物」の展示会だと思っていました。

 でも、中身はまるで違ったみたいですね。私も展覧物をちらっと検索しましたが、極左というか、反日感情むき出しで公序良俗に反するものばかりじゃないですか。曲がり間違っても、私はあれらを芸術とは取れません。正直、ウィットに富んだ便所の落書き未満でしょう。あの手の作品は、「普通の人に同じ発想はあっても、踏み越えてはいけない一線だとしてそもそも作らない」もの達じゃないですか。芸術、もとい表現には自由があります。それは確かに保障されてしかるべきです。ただ、あくまで「大多数を不快にはしない」ということが前提にあります。

 創作物たるもの、基本的には創作者の思想が色濃く反映されます。皮肉屋な創作者ならニヒルな作品になるでしょう。でも、作品自体を見た際にはその作品だけを判断材料として、二次的にその意味が隠されているなら問題はないはずです。むしろそうでなければならないと私は考えています。

 その点、今回の展示会で出された作品には、昭和天皇の写真を燃やしたり、反日目的で作られた像と同じものが「平和の象徴」として設置されたり(ハトでも放しとけボケ)、自分の主張をどストレートに表明するものばかりでした。あれでは芸術の欠片もなく、単なる反日勢力のプロパガンダですよ。

 

 私が驚いたのは、今回の騒動に「規制すべきでない」派が一定数いることです。彼らの意見としては、「創作物たるもの、全て自由の元にあるべき」に似たものがあるのでしょう。ですが忘れてないですか? 今回の展示会には公費、つまり税金が使われているんです。私はあまりナショナリズム的なことは言いたくはないですが、公費、つまり国民から徴収して国家ひいては日本国内の大小問わない共同体の運営のために使われるべき税金が、何故反日、また日本の歴史の否定のために使用されるのでしょう。仮に反日運動の結果生まれた作品があったとしても、芸術的価値、もっと端的に言えば「背景はそうかもしれないけどこの作品、私は好きだよ」って受け手に言わしめる作品なら誰も文句はないでしょう。そうでなく、単純に日本を攻撃するためだけに作られたものだから非難されるんじゃないですか?

 

 今回の出展物、私は「表現の不自由」のもと闇に葬られたものではなく、人道を大きく踏み外した外道の産物だと断じます。例えばね、(表現の自由と公共の福祉をどこで折衝させるかにもよりますが、ひとまず多くの人目に付くターミナルのプロムナードに展示できること、と仮定しましょうか)立島夕子さんという画家をご存じでしょうか。

 私、彼女の作品結構好きなんです。細やかで綺麗で、見ていて飽きないですし何かこう、頬ずりしたくなるような何かがあります。ですが、私は彼女の作品が好きでも、これはきっと公共の場で展示できないだろうなと感じます。試しに検索してみてください。中々におどろおどろしい画風で、見る人によっては強烈な不快感を覚えるかもしれません。ネットでは「強姦被害にあった人が呪いを込めて描いて、その後自殺した呪いの絵」なんて言われていますから。

 また、同じような理由でゴヤの『わが子を食らうサトゥルヌス』なんかもダメでしょうね。他にもベクシンスキ作品なんかも。でもこれらはあくまで表現されたものが、表現技法をこらした結果そうなっただけであって、他者の攻撃を明確な目的とはしていないはずです。ですから、規制されたものであっても私費で個展を開く、なんてことは許されます。画廊も受け入れるでしょう。そこが大きな違いです。

 受け入れる場所があるか否か。特に今回の人倫の放棄を自由と履き違えた作品群にはない魅力です。曲がりなりにも芸術を自称するなら、そしてそれが本当に芸術として欠片でも成り立っているなら、受け入れてくれる場所はあるはずなんです。

 それができずに「表現の自由は実際には不自由で切り捨てられた」と喚く輩には表現者を語る資格はありません。

 

 ごめんなさい。全体的に語気が荒くなりました。

 私、この手の自由を都合よく解釈した連中嫌いなんですよ。見ていて無性に腹が立ってくるんです。

 勿論、私のブログは私が勝手に垂れ流しているものですので、これが公序良俗に反して、不特定多数の方々を傷付け不快にさせるというなら改めます。

 

 それではまた、次の機会に。

 

ゲヘナより哀を込めて。

老いて枯れる

 先日、海の日の三連休を利用して帰省しました。バイクでの帰省です。梅雨前線の影響で雨を心配しましたが、移動中ずっと雨ってことはなく、局所的に降られたりはしましたが概ね曇りで日差しも強くない中を走れました。

 6/30で私の愛車のえっちゃんが一年を迎えました。2018/6/30に納車されてから、結構いろんなところを回りました。本州34都府県のうち17には行きました。東北はどうしても遠いので、今年は中国地方を制覇したいな、と考えています。

 

 私がバイクを買ったのは、遠くに行く免罪符が欲しかったからなんです。勿論、昔からメカメカしい体躯や走る姿に憧れはありましたが、気力とガソリンの続く限りほとんど全ての場所に行ける、というのが何よりかっこよかったです。

 確かに車の方が何にしろ便利です。夏も冬もエアコンのおかげで快適ですし、その気になれば車内で寝泊まりできます。バイクのようにパーツがむき出しじゃないので、普通に走る分にはメンテナンスもそんなにかからないでしょう。雨天時や冬もスリップの心配は少なく、万一事故を起こしても死ぬ可能性はバイクに比べて格段に低いです。

 そんなことは分かっています。でもね、私は小回りが利いて、環境の変化を直に感じて、私がメンテナンスしないとすぐにダメになって、死と隣り合わせのバイクが良かったんです。バイクが死ねば私も死ぬ、私が死ねばバイクも死ぬ。そんな一蓮托生がよかったんです。

 

 さっき上で「免罪符」と書きました。私の勝手な印象ですが、車というのは帰る場所、収める場所ありきのものだと感じています。私が車の免許を持っておらず、一人でドライブをしないからだと思いますが、誰かと乗って帰ることが前提の遠出をするために乗るものだと思っています。

 対するバイクは、タンデム(二人乗り)やサイドカーはありますが、基本的に一人で乗るものです。よく界隈で過激派が叫んでいますが「一人で起こせないなら乗るな」「簡単な整備もできないなら乗るな」、そんな孤独な乗り物です。

 過激派の意見に全面的に賛成するわけではないですが、Twitterで「姫ライダー」などと揶揄される人種は酷いものです。立ちゴケ(停車中にバランスを崩して車体を倒すこと)や発進時にエンストして倒したときに「えーやだどうしよどうしよ」と自分で起こす努力もしない奴までいます。姫ライダーですから、周りには従者の騎士ライダー(笑)がいます。倒したとき、困ったときは全面的に前に出て、姫に良いカッコすることが本懐のようです。検索するとごまんと出てきますよ。一昔前のオタサーの姫みたいなものです。私が彼ら彼女らに口を出す権利なんて露ほどもありませんが、正直なところ、同じバイクオーナーとしては数えたくないですね。

 私の発想や固定観念が古いのかもしれません。バイクはたまの例外こそあれ、孤独の乗り物だと今でも思っています。一人で乗って、一人で楽しんで、そういうものだと思っています。孤独、ということは自分で全てに対処しにといけない代わりに、何をするにも自分の自由です。独りでないとできないこともあります。複数人で遠出をするのは小旅行になるでしょう。でも独りなら、遠出にジャンルを与える必要はないんです。独りだから。

 独りで、バイクに乗っているから。大概の人はそれで納得してもらえます。私は小旅行がしたいわけでも、決まった場所へ出かける足が欲しいわけでもありません。行先も遠さも分からない場所に行けるから、だからバイクが欲しかったんです。バイクに乗ってるから、独りでふらっと遠くに行っても何も言われない、そんな状況が欲しかった。

 

 実際、私の風来坊は加速したように思います。意味もなく見ず知らずの土地へ出かけることも増えました。今まで見向きもしなかった道の駅へよく立ち寄って、バイクに乗っていなければ通らないであろう住宅街を突っ切って、縁もゆかりもない港町を走りました。ここの街に住む人はどんな生活なんだろう。この山間に住む人はアクセスが不便じゃないのかな。この港で働く人はどんな魚を食べてるんだろう。ここの人は、あの人は、この土地は、あの山は、そこの川は、そっちの海は。そんなことを考えているうちに「そのうちこんなところで暮らしたいな」「港町で生活するのは辛そうだな」と想像し始めました。

 と同時に、なんて言うんでしょう。実際に自分がどこに住みたいのか、どこで生活したいのかが分からなくなってきました。今は神戸で住んでいますし、それまでに生活したことある場所だと埼玉と東京です。私は本当に今のところで暮らしたいのか、それとも実家に戻りたいのか。段々と分からなくなってきました。

 そうなると、言霊ってわけでもないんですけど、今いる場所が自分の居場所ではないように感じてくるんです。集団からの疎外感は常に感じていますから、そんなものじゃあないと思うんです。神戸の自宅にいても、埼玉の実家にいても、職場にいても、「ここは帰る場所じゃないな」「ここには居場所がないな」と感じるんです。

 よくツイートでも現実でも「帰りたい」と口にします。でも本当のところ、どこに帰りたいかがよく分かっていないんですよね。自宅は何者にも侵略されない私的な空間ですが、なぜか休まる場所ではないんです。自宅で休めば、数時間後には出勤しないといけません。会社にいれば、私のような泥人形の労働力なんてあってなきが如しですから、いつも周りから白い目で見られているんじゃないかと猜疑心が蠢いています。実家にいても、父も母ももうお互い別々の道を歩いていくと決めたようで、その間に私が入る余地はありません。

 何も考えないで済むのは、バイクで山の中を走っているときか、ドトールの喫煙席にいるときくらいです。それも、ものの数時間で終わってしまいますから、結局のところ解決策にはなりません。

 「家では彼氏彼女/子供/奥さん旦那さん/ペットが待っている。だから帰らないと」なんてよく言いますよね。「クリアアサヒが家で冷えてる。心ウキウキワクワク」と謳ったCMもありますが、これは「家は一息吐いて落ち着ける場所」であることが大前提です。私の家は、がらんどうで物ばっかり多くて肝心なものは何一つない雑多で空虚はスペースです。たまたまそこで寝泊まりをしている私的な場所、というだけで、心休まる家ではないんだろうなって感じがします。

 そんな場所から逃げたくて、ここ以外に帰る場所があるはずだと無根拠に信じて、全国津々浦々、バイクだけじゃなくて色々訪問しましたが、結局のところそんな場所は見つかっていません。もうなんとなしにわかっていますが、多分、そんな場所は全国どころか世界中どこを探しても見つからないんだろうと思います。昔はあったかもしれませんし、最初っからなかったのかもしれません。少なくとも昔はここまで強く感じたことはなかった、、、はずです。

 帰る場所ってなんなんでしょうね。本来詭弁と願望で生み出された概念上の存在でしかなく、普通の、泥人形じゃない人間様には気にするにはあまりに些末なものなのかもしれませんね。

 どうせかえるなら、土に還りたいですね。

 

ゲヘナより哀を込めて。