虚勢の銀貨

東村の日々の記録

メメントモリ

 死ぬって、そんなに悪いことでしょうか。私もこの年まで生きてきて、色んな人と話してきましたし、色んな作品にも触れました。様々な主義主張を見てきましたし、数多くの意見も耳にします。その中で、大多数を占める意見として「死ぬ=悪いこと」って前提が多すぎるんじゃないかなって思うんです。

 

 そもそも皆さん、死ぬことについてどう考えているんでしょう。こう考えた時にね、「死ぬ=悪いこと」と信じ込んでいる人は、当の死については多分、何も考えていないんじゃないかなと思うんです。生きることに盲目的になって、死ぬことについて考えるのを放棄して、「生きなきゃいけない」って強迫観念に駆られているだけじゃないかなって思うんです。

 私が感じていることも極観念的なことですから、伝わりにくいかもしれませんが、とりあえず、いたずらな死についてのネガティブイメージを払拭できるよう書いてみます。

 

 死ぬって、終焉ですよね。終わり、ピリオド、結末、終着点、言い方は何でもいいですが、そんな感じでしょう。では何に対する終焉なのか。それはきっと生存でしょう。生きて在ったものが、死して亡くなるんです。生きたものの終着点、それが死です。生きるのが終わるって意味です。

 ただ、これってそんな悪いことですか? 生が善くて死が悪いんですか? 何故?

 森羅万象、必ず終焉を迎えます。ここを見る人の特性上、物語の例を取りましょうか。物語は必ず終わります。それが一冊という形なのか、全シリーズという形かは視野によりますけど、皆さんが手に取る物語には必ず終わりがあります。むしろ、終わりのない物語を手に取ることはできない、と言い換えた方が正しいでしょう。ある程度の完結の形を取らないのは、つまりそれが未完であって、人の手に渡る価値がないと見做されるでしょう。

 物書き界隈でこんな言葉を聞いたことないですか?

「未完の傑作より、完結した駄作」

 作品は何らかの形で終わりを持ってこそ、作品としての命を持つんです。言い換えれば、「死んだからこそ意味がある」ってことなんですよね。

 さて、ならこと命の場合はどうでしょう。この論理、私は生命も物体も問わずに当てはめられると考えています。つまり、「人間は死ぬからこそ意味がある」って感じですね。些か乱暴ですか? 観念的なことなので説明は難しいですが、なんとか頑張ってみます。

 

 「生」の二項定理には「死」が挙げられることが多いでしょう。ほとんどの人もそうするはずです。なら、敢えてこの「死」を取っ払った「生」があるか考えてみます。終わりのない生、それはつまりその状態がずぅっと続くってことですね。すなわちそうなってしまうと「生」は「停滞」へと変化していきます。これ、私は例でよく出すんですが、ペットボトルを思い浮かべてください。ペットボトルは生きているでしょうか。勿論、NOですね。ですが先の論理を思い出してください。「ペットボトルは生きていない」の命題の論拠となるのは、「ペットボトルが生命活動をしていないから」ではなく、「ペットボトルはそのままの状態を永遠に保つから」、つまり停滞しているからなんです。外的な要因として、力を加えたり熱を放射したり冷凍したりしなければ、ペットボトルは半永久的にその形態を保ちます。つまり死が訪れない。生の終焉としての死を迎えないから生きていない。こんな調子です。面白いですよね。これが通るってことは、先に挙げた二項定理も瓦解するんですよ。死がない生が成立しないなら、死の存在は生の前提条件となるわけです。

 死ぬからこそ生きたというパラドックス

 私達は、今現在を生きていると言われている私達は、私の論理を正とするなら生きてはいないんです。何せ死んでいないんですから。

 

 私が死を悲観や忌避しない理由はここにあります。現在からの、現世からの解放という意味だけではなく、私という一泥人形が確かに生存していたことを、少なくとも私の論拠上では、死ぬことによって初めて成立させられるんです。今の私ではただ「存る」だけ。これを生存という形に昇華させるには一度死ぬしかないんです。死が生の対極ではなく、前提条件であるなら、そこをクリアしないことには目標には手が届きません。

 

 一般的に忌避される死は、その実、生をいう形態を確たる土台を持って固定するための通過儀礼に過ぎないんです。その副産物として今生の別れや完全な終焉が訪れますが、そんなことは些末なものでしょう。何よりも、一個人がそこに「生きて」「存った」ことを決定することが、ただ「存る」だけではなく確かに「生きて」いたと語られることこそが、死の持つ何よりも価値のある効能だと私は考えています。

 

 どうでしょう、こう考えると、死についてのネガティブなイメージは多少なり変わりませんか?

 確かに何者かと別れてしまうことは悲しいですが、それは視点を変えれば、そこでその人が生きていたことの証左にもなるわけです。死を悼むくらい特別な人の生が確定したこを、何故そんなに悲しむ必要がありましょう。

 これが私の、宗教にもカルトにもよらない死生観です。

 

ゲヘナより愛を込めて。