虚勢の銀貨

東村の日々の記録

他人は難儀

 贅沢は敵でしょうか。

 太平洋戦争中、「贅沢は敵だ」「欲しがりません。勝つまでは」「月月火水木金金」等の標語が用いられていたことは有名ですね。アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の門のアーチには「Arbeit macht frei(労働が自由をもたらす)」と刻まれています。国家を賭けた対戦の最中、物資や金に限りがある上で人力を尽くすしかなかった故でしょう。

 

 再三断っておきますが、私はこのブログ上で政治や歴史上の真偽を語って、読者の方々を保守主義や改革主義へ引き込もうとするつもりは毛頭ありません。私のツイッターを見ている方はお分かりと思いますが、私自身、虚無主義を標榜していますので。

 

 先の三つの標語は本当に戦時下でのみ掲げられ、仮にも平和となった平成の現代には引き下げられたものなのでしょうか。私が何を言いたいのか、皆さん多分お分かりでしょう。

 昨今、ブラック企業が憂慮すべき問題となっています。休日もなく、平日は終電間際まで働かせ、実労働時間を時給換算すれば最低賃金の半額を割るような給与しか支払われない。過労死せずとも超長時間労働や相対的低賃金は人を殺します。学生が青い命を燃やして「社会の歯車になりたくない」と言いますが、歯車の方がまだマシと思えるような労働環境も、確かに日本国内に存在します。

 

 ネット社会になって、SNSが生活上で必要な情報をほとんど運んでくれるようになって、同時に他愛のない投稿や私生活が悪意と害意の的になることも増えました。そろそろボーナスの時期ですが、公務員がボーナスをもらうことにガタガタ言う連中も出るでしょう。公僕なんて言われていたこともありますが、現代社会において、彼らも一労働者であり、それ相応の給与を受ける権利はあります。また、なにがしかの作家がどこかへ旅行へ行ったり、豪華なホテルディナーに行った写真をアップすれば「俺達が払った金で」と憤慨する意味わからんやつも出たことがあります。

 

 金なんてもらってなんぼ、使ってなんぼです。それなのに使えば「また無駄遣い」「そういうのが買えない人も」なんて叩かれます。多分、「贅沢は敵だ」ではなく、嫉妬や僻みが多いんでしょう。親が収入の少ない学生の子に対して戒めの意味で使うのとは異なっています。

 この時期になると、夜の品川駅で会社員に「今年のボーナスどうでした?」なんてインタビューするニュースを目にしますが、その反応はどうでしょうか。「そんなに貰ってるのか。俺も頑張ろう」でしょうか。「そんなにもらえない人もいるんだ!自慢のつもりか!不謹慎だ!」でしょうか。体感としては後者が目立つイメージです。

 同時に「公務員のボーナスは」なんてやろうものなら目も当てられません。公務員の仕事が楽なんて誰が決めたんでしょう。私の母は地方公務員ですが、母を見て「公務員が楽だ」と思ったことはありません。強いて言えば、定時出社定時退社がしっかりしているのが羨ましいくらいでしょうか。彼らを叩くのは、定時退社できない企業戦士(笑)でしょうか。

 ただ、ちょっと待ってください。そもそも定時出社定時退社はできて当たり前じゃないでしょうか。残業している方が偉いなんて言ったのは何処のバカでしょう。遅くまで残っているのが仕事に真面目な証拠なんてのたまったのは何処の無能でしょう。

 労働を正義とする考えを真っ向から否定するつもりはありませんし、人生を仕事に賭けている人を悪とするつもりなんかありません。各々の勝手です。私は働かず、興味の向く分野へ傾倒できるのを理想としていますが、それは私の考えであり人生観であり、他人に押し付けようとはしません。だからその分他人の考えを私に押し付けるなってことです。

 

 そもそも日本人は自分というものに芯が通っていない分、周りとの同調を求めすぎなのです。流行に流されやすいのも、集団圧力同調圧力が強いのもそのせいでしょう。

 古来より集団主義として生きてきた日本人にとって、集団から外れることは確かに恐怖かもしれません。集団でいることを是として、つつがなく毎日を過ごしていく楽さは私も知っていますし、それを壊さないよう排除されないよう暮らしていこうとする心理も分かります。

 ですが、自分の属する集団に焦点を絞るあまり、他の個人や集団を攻撃するのはあまりに非合理でしょう。何故、自分の集団≠他の集団、と割り切れないのでしょう。他の集団を叩く連中は、社会主義国家のように誰もが右に倣えなら満足するのでしょうか。

 

 他の集団と自分の集団、また他者と自己を切り離して考えることができれば事態は好転すると思いたいです。実状、そうなったとしても多分、私がそうあってほしいと願う世界は実現しないでしょう。自他分離ができたとして、嫉妬や僻み、羨望はなくなりはしませんし、それらを昇華して自分を高める原動力に変換できる人は一握りなはずです。大半はやはり、今と変わらず他人や他の集団をこき下ろし、足の引っ張り合いが発生します。断言しましょう。人は簡単には変われませんし、人の集まりであるコミュニティが変わることなんて、パラダイムシフトが起きても難しいことがほとんどです。

 

 自分が支払った対価への報酬にとやかく言われる、正直うんざりです。私自身が僻まれたり羨ましがられたり、そんな経験に富んでいるわけではありませんが、目を開いていればネタに困ることなく、毎日毎夜飛び込んできます。

 自分の芯がないから、他者を攻撃する方へ走る、と言いましたね。愛情の反対は敵意ではありません。自分とは未来永劫関係がないであろう他者に対して、自分の時間を、体力を、感情を浪費して何になるでしょうか。

 他人は他人、自分は自分。愛のない無関心の割り切りで何故済ませられないのでしょうか。

 

 本当に、この世界は生きにくい。

 

 

ゲヘナより哀をこめて