虚勢の銀貨

東村の日々の記録

かりそめの秩序の城

 森羅万象、何がしかが起こるためには熱が必要です。水を沸かすのに火が要るだとか、車を動かすにはガソリンを燃やす必要があるだとか、そういった直接的なことではありません。

 

 エントロピーという言葉を聞いたことがある人は多いと思います。熱力学第二法則で説明されるものなのですが、如何せん私自身が物理学を履修しておらず、専門的な話ができないため、簡単なものに留めたいと思います。

 エントロピーは言ってしまえば「乱雑さ」を表すものです。コーヒーにミルクを入れるところを想像してください。コーヒーとミルクが別々の容器に入れられているときは秩序が保たれていますよね。この状態は「エントロピーが小さい」と言います。ではこのミルクをコーヒーに入れて十分に撹拌します。すると、元々二つの独立したものが混ざり合って分離が不可能になりますよね。これを「エントロピーが増大した」と言います。

 熱力学第二法則ではエントロピーは必ず、小→大へと動きます。勝手に減少したりはないってことです。エントロピーが大きくなった、ミルクの混ざったコーヒーは、いきなりまた真っ黒なコーヒーと真っ白なミルクに分離するなんてことはないですよね。

 ここでは分かり易くするためにコーヒーという卑近な例を出しましたが、これは何も私達が干渉可能な事象に限ったことではありません。エントロピーに絡めてよく言及されるのは宇宙の終焉です。エントロピーが増大し続けて、つまり秩序あるものがいろんな現象事象を経て混ざり合った結果、宇宙のエントロピーは限界点を迎えます。その結果、エントロピーは平衡し、これ以上何かを起こすエネルギーを失ってしまいます。端的に言えば、極端に安定した状態で止まったままになるんです。

 私達の尺度で言うと、純鉄の立方体を地下の真空室に放置しているようなものですね。誰も触らないから動きも変形もせず、空気がないから錆もせず、日光を浴びないから変色もせず、そんな状態です。勿論原子には半減期がありますから何万年何億年と放置すれば何か起きますが、少なくとも私達の寿命の限界くらいでは何も起きません。

 この宇宙が「極端に安定した状態」になることを「宇宙の熱的死」と言います。ここに至った宇宙は最早何も起こさない茫漠たる空間に成り下がるんです。まあ、私達、というか人間が存在しているうちには起こり得ませんから安心してください。

 

 さて、何故冒頭にこんな話をしたかというと、私としてはこの熱的死が人間にも起こると考えるからなんです。私達人間は気が付いていない、もしくは意識していないだけでとてつもないカオスの中を生きています。皆さんが普段どんなことをされているか、私は図り知ることはできませんが日常を送るにあたり何がしかの関係性のるつぼにいるはずです。

 一日中誰とも会わず通信機器を持たず完全にスタンドアロンで生きている人がいたとしても、生きるためには食事、睡眠、排泄が必要です。食材は誰が作るのでしょう。睡眠をとれる壁や屋根の付いた家は誰が建てるのでしょう。排泄物は誰が処理するのでしょう。なるほど、確かに全てを自身で賄う仙人のような人がいて、街中ではなく誰にも会わない山奥で暮らしていたとしましょう。ですがそこでも自然との関係性はあるはずです。社会と言わず共同体と言わず、この世界で生きる私達が完全にカオスから抜け出すには四方八方を無に囲われていないと難しいです。しかもその人がいるだけで、無とその人の関係性が成立してしまう。ならその人自身も無になるか。そうなってしまうとその人自身も存在しなくなってしまう。論理の泥沼ですね。

 

 閑話休題、私達はカオス系の中を生きていますが、エントロピーの増大が表す通り、その中を生きていくのは非常にエネルギーを消費します。誰もいない道を歩くのと、朝のラッシュ時の新宿を歩くのでは明らかに後者の方が体力を使いますね。日々の生活にとっても同じことです。学生時代よりも仕事をしている社会人の方が疲れるのは体力の衰えも勿論ありますが、単純に関わるカオスの大きさによるものです。

 人一人が貯え、利用できるエネルギーの総量はたかが知れています。私達は日常を送る上で知らず知らずのうちにエネルギーを節約しています。例えば、街行くときに見える看板の詳細までは目で追わなかったり、家に帰ってから一言も話さなかったり、話を聞き流したり。

 私が社会人になってから顕著に感じるのは、感情の平坦化ではないか、と思っています。学生時代に比べ、何かしらにいちいち注意を払っていては身体が持ちません。反射と呼べるくらいの癖で今でも度々そうしていますが、それもしんどいと感じることがあります。

 

 さてさて、前置きが長くなりましたが、私の元々持っていた熱量はいつまで維持できるのでしょうか。先日、敬愛する画家さんの告知をリツイートしましたが、彼女のように働きながら自身の創作活動を間断なく続けていける、そんな人を私は本当に尊敬します。少しでも何かを創る活動をしたことがある人なら分かるように、多分あの手の活動は人間が自ら飛び込めるカオス系の極地であるかの如く、エネルギーを消費していきますね。まるでおが屑に火を点けるように、無尽蔵に食らいつくしていきます。その活動から得られる動力やモチベーションは勿論ありますが、それが得られるようになるまで一体どれだけ消耗すればいいか分かりません。

 

 種火というのは結構長いこと持ちます。傍目には消えたように見えても、空気を送り込めば勢いを取り戻して火の手を上げることもできます。ですが、一端完全に沈黙してしまっては、空気を送り込めない場所に追いやられてしまっては、それはどうして復活の声を上げられるでしょう。命を削って、その灯を揺らがせる行為は途方もなく尊いものですが、それができる人は一体今現在、どれだけいるのでしょうか。

 

 私は元々、世間や社会への不満、どうにもならない自分の不甲斐なさから小説を書き始めましたが、最近それが小さくなりつつあるのをひしひしと感じています。別に感じていたものがなくなったわけではありませんし、あまつさえ納得したわけでもありません。ただ何となく、多勢の潮流に逆らうことに疲れてしまったかな、と思うんです。かといって、流されることを良しとはしないことを信条に生きていますから、私が時代の波に呑まれるときは、恐らく私が潰えるときしょう。流石に永遠には戦えません。

 

 今日のカオスを、明日のカオスを、エントロピーを増大させまいと振る舞って、求めるところに達するまで、何をどれくらい切り落としていくのでしょう。

 皆さんがカオスを、日々小さくできるよう祈っております。

 

 ゲヘナより哀を込めて。