虚勢の銀貨

東村の日々の記録

親の心子知らず、子の環境親知らず

 「世代間憎悪」と私は呼んでいますが(どこかで見たのかもしれません)、以前に比べて自分達を擁護し、他を排する風潮が大きくなってきたな、と感じます。

 

 私は所謂「ゆとり世代」と言われる世代です。1990年代初頭から大体2000年代初頭生まれの世代でしょうか。義務教育でもそれまで土曜授業がありましたね。指導要領が変更される前の教育現場を私は知りませんが、ゆとり教育の方が緩いとはよく言われますね。私達の世代は、別に「ゆとり教育を受けたい!改正しろ!」と声高に要求して勝ち取ったものではありません。上が勝手に決めて、受けざるを得なかったんです。

 

 さて、この教育方針が制定されたのは2002年です。このあたり、結構激動の時代だったな、と私は感じています。何よりも一番大きいのはネットの普及ではないでしょうか。パソコンや携帯電話が庶民の手に届く範囲まで下りてきて、勿論便利ですから急速に普及率を伸ばしていきましたね。私の世代ではまだギリギリ「好きな人の家に電話して、相手のお父さんが出たらどうしよう」のドキドキ感をしっていますが、それよりも下、2000年代後半に生まれた子供達はもうラインやツイッターでそういうことをするんじゃないでしょうか。

 閑話休題、ネット社会やデジタルネイティブといった概念の黎明期であったわけです。小学校高学年ではゲームキューブPS2が、中学に上がる頃にはWiiPS3が世に出ました。ポータブル機でもDSやPSPが出ましたね。私の青春はそれに支えられていた、と言っても過言ではありません。

 ただ、同じ世代の方なら共感いただけるかな、と思うのですが、親はそうしたゲーム機を全てまとめて「ファミコン」「プレステ」と呼んでいなかったでしょうか。ニンテンドー64ゲームキューブも初代プレイステーションPS2も、大体全部いっしょくたに呼んでいなかったでしょうか。

 私達、そうした親の世代をどことなく見下していたことはないでしょうか。「今時ファミコンなんてないよ」「これプレステ。なんで分からないの」と。親にはゲーム機の違いが分からない、と高をくくっていたことはないでしょうか。多分、ここが第一の転換点だったかなと思います。

 

 ゲーム機もさることながら、携帯電話も意味の分からないスピードで進化していきましたね。年々薄く小さくなっていき、2010年に入る頃にはスマートフォンも出現しました。それまでは銀行のATMや施設の端末でしか見ることのなかったタッチパネル方式が手のひらに収まる大きさの機械に実装されて、今ではそれが当たり前になっています。

 私達の世代と親達との世代を隔てる大きな要因はこれだと思っています。ムーアの法則ってご存知ですか? 端的に言うと、コンピュータの性能は年々上がっていくってものです。ゼロからコンピュータAを作って、Aでより性能の高いBを設計して、という流れを何度も繰り返していきますからね。その結果出来たのが今の情報化社会です。私達はその変化の渦中にあって、あまり実感がないかもしれませんが、10年前を見ると今のiPhone11なんて訳分からないくらい高性能になっていますよね。

 さてさて、人類史上、ここまで技術革新が加速度的に行われた時代はありません。産業革命原子力の転用などなど、一応似たものはありましたが、どちらもすぐ頭打ちになりました。それに比べて今の加速情報社会は留まるところを知りません。

 私達の世代はその流れに乗れている世代でしょう。生まれた頃からポータブルゲーム機があって、中学や高校に入る頃には自分の携帯電話を持って、そんな社会が加速していく時流に私達自身の世界も加速していきました。

 

 冒頭の話に戻りましょうか。私は現在の世代間憎悪を、この加速の波に「乗って育ったか」「後から乗る必要に駆られたか」の差だと思っています。上記では体験したポップカルチャーの例ばかり挙げましたが、ビジネス面でもそう変わりはしません。

 IBM(世界一のIT企業と言っても過言ではありませんね)で定年退職を迎えた元社員の方に話を聞く機会がありました。その方は今年65歳、つまり今の私と同じ年齢だったのは今から40年も前です。その頃は個人用のノートPCなんてものはなく、馬鹿でかいブラウン管のデスクトップPCでした。企業が保有する基幹系システムを入れるメインフレームなんかはありましたけど、持ち運びPCがメジャーになったのはそれこそ2000年前後じゃないでしょうか。

 今から40年前の彼は、今のようにパワーポイントで資料作成なんかできなくて、模造紙にプレゼン資料を書き込んでいたようです。天下のIBM社員が、ですよ。2000年に突入するあたりで、所謂今の社会の管理層は、既に企業内でもある程度の管理層になっていたでしょう。するとどうなるか、端的に言ってしまえば主戦力の場、第一線を退いているんです。特に現在の官僚なんかみれば顕著ですよね。自分でPCを打ったことがない、USBメモリすら知らない。スマートフォンを使っているというだけでドヤ顔をする。これが今の日本のサイバーセキュリティ担当大臣です。国はそれでいいと思っているんです。

 この差、唾棄すべき程無知である上層と、私達のような時代の流れに人生を左右される下層、これが世代間憎悪の源泉であると私は考えています。両者の前提が既に異なっているんです。人との無数の繋がりありきであった時代と、最低限の関係でことを進められる時代と。情報が加速化されて、若い人はそれに追いつくのに必死になっています。上の世代の人はそれを過小評価しているのか、自分達の経験を課題評価しているのかは分かりませんが、少なくとも私達のようには考えていないでしょう。

 

 加えて、時代が流れて変わっていくにも関わらず、システム側が旧態依然ってのも問題ですよね。私、IT企業に勤めてますから、現場でバリバリやる若い人と、管理層の上の人の意見の相違って結構見ています。

 「これ入れればリモートワークもデータ管理も楽になりますよ。ちょっとだけ高いですけど」そんな仕組み、インフラ、ソフトは腐るほどあるんです。客側の管理層がどう考えてそれを蹴っているかわかりませんが、大体こう言って断られます。

「今までこれでやって問題はなかったから」

 保守主義蔓延る日本らしい言い方ですよね。石橋を叩いて叩き割ってどれくらいまで行けるか確かめて、同じものを創ろうとするけどコストに腰が引けて直接川を渡るやり方、こんなものが横行してます。勿論評価を出すことは素晴らしいです。これまで評価を出していた手法を守って堅実にいくことも大切です。でも、そんなことをしていても、何も成長も発展もしませんよ。投資、これの大切さが分かっていない上位層が多すぎるんです。株やFxとか仮想通貨とか不動産とか、そんな話ではありません。設備や人やスキル、ソフトウェアやガジェット、道具、そういったものに投資をすることの大切さが分かっていないんです。「これを導入しても良くなるとは限らない。だから入れない」、リスクヘッジの観点では重要です。でも、入れて成功した場合の得もそこで丸っきり切り落とすわけですよね。こういうの、機会損失って言うんじゃなかったでしたっけ。

 

 ネットでもたまに見ますよね。「お客様からいただいた仕事を機械に任せるわけにはいかない」「手書きの方が心がこもる」そんな生産性の欠片もなくて自分の無知と愚鈍さをさらけ出すような意見。多分ね、私思うんですけど、そういう昭和の遺物って愚かなくせに声がでかくて柔軟性が皆無じゃないですか。だから私達みたいな平成生まれには「こう言うのが昭和の人なんだ」「上の世代に何か言っても無駄なんだ」ってなるんですよ。その結果が今の経済市場の停滞なんですよね。

 政治もそうですけど、社会って私達みたいな若い層が考えている方向には絶対進まないじゃないですか。同性愛のパートナーシップ制度だって、何の不利益もないにも関わらず遅々として進まず、ほとんどの自治体で認められていないじゃないですか。

 こういう状況を目の当たりに突き付けられて、自分達で改善することもできずに、大勢のほとんどを占める昭和の古い人間が都合よく作り上げた中を生きることを強要されるんです。この中で世代間憎悪が育たないわけがない、と私は思うんです。

 

 なら選挙に行けって? それは勿論真っ当な意見で、反論の余地なく選挙には行くべきです。現在の日本を変えるためには実力行使でもデモ行進でもなく、選挙で介入するしかありません。ただ、皆さんは所謂若い層、今年30歳になる平成元年までの層と、それよりも上の層と、どれだけの隔たりがあるか知っていますか? 仮に共産主義の資本主義の二大政党しかいない、みたいな状況ならまだなんとかなるかもしれませんが、今はそうじゃないですよね。人口比的にはもう本当にテルモピュライの戦いさながらですよ。300のスパルタ群と200万のペルシア軍、正直なところ負け戦ですよ。票田としても発言力としても。

 今の若い層がもう何もしようとしないのは、それが見えているのではないでしょうか。

 加えて、政治家の汚職や不義理は嫌というほど目にしてきました。特に私前後の人は多感な時期にあの民主党政権を知っていますからね。政治への不信と、期待しても何もしてくれないっていう諦念が大きいのではないでしょうか。これは私の想像の暴走ですかね。でも民主党政権があり、安倍政権があり、国会は幼稚な野次の嵐。法人税は下げられても市民に還元されているとは言い難い。消費税も年金も上がりつつも、決して充実しきっているとは言えない国内福祉。声が大きい層は大概が最早年金世代となっていて、同じ国に住んでいるとは思えないほど環境が異なります。

 上の人は言うんです。「俺達だって昔は苦労した。若い頃は残業100時間も平気だった。仕事があることに感謝して働くべきだ」

 私みたいな若い層は言うんです。「仕事量も情報量も違うから同列に語るな。お前たちが100時間かかっていた仕事は今の世代は10時間でやってる。感謝どころか先も見えない中、自分の生活を成り立たせることで精いっぱいだ」

 

 世代間憎悪、これは時代の波に乗って育った否かに起因すると言いましたね。若い世代が今の波に乗るというのは、莫大な量の情報に晒されて、吸収して生きていくことに他なりません。否応なく変化を強制されます。

 私はここで言う若い層ですから、どうしても昔の人の考え方を身に付けることはできません。どうしても昔を敵視して今を擁護してしまいます。

 完全に私の主観、私の意見として述べるなら、特に今の声のでかい層、TVタックルに出演して我が物顔で喚いている層へ「能力もねえくせに、今の足を引っ張ってんじゃねえよ」としか言えないですね。奴らが若い頃は高度経済成長下で育ち、学生運動なんて暴動で主張を通して、働きに出ればバブル経済でやりたい放題、そんなぬるい環境で過ごしてきた無能共に、私達の苦労の欠片でも想像できるのか、と。

 正直、今の若い層から隠居層への憎悪は八つ当たり的な部分がないとは言い切れないかもしれません。先の見えない不安感、脆弱な生活基盤、増えるだけの経済負担、そういったものが積もりに積もって吐き出す先がなくなって、こんな形で噴出しているだけではないか、とも思います。でも同時に、隠居世代が今の若い層へ無茶振りや強要強制、過去の栄光にすがって横柄な態度を取ったり、黴の生えた価値観で今を判断したり、と理不尽が絶えないのも事実ではなかろうか、とも思います。

 

 多分、労働がこの世、少なくとも日本から消えない限り、この手を軋轢は消えないんだろうなって思います。「働けど働けど暮らしは楽にならず」、そんな感じです。上の層の考え方を変えるのは不可能でしょう。各々が気付いたり気付かされたりで変えられていたなら、ここまでどうしようもない社会にはなっていないはずですし。

 それを愚痴れば「でもお前たちは恵まれてる」「他と比較したらこんな酷いところがある」なんて言われる始末ですもん。これ、この発言の裏には「俺達も同じ条件で苦労してきた」「俺達だって同じ条件で苦労してる」「だから文句を言うな」って心理が隠れてるんですよね。

 もうやめませんか。公務員のボーナスが高いって喚いてる馬鹿と同じじゃないですか。よりよいものを求めて何が悪いんですか。家賃補助2万に文句を言えば「補助なんてないところもある」、年間休日が130ある企業を羨ましがると「うちはみんな少ない休日で頑張ってるんだ」、だからなんですか。奴隷の鎖自慢はもう結構です。アベノミクスだTPPだで日本の経済が回らないんじゃなくて、骨の髄まで染み込んだ奴隷根性と苦労は美徳の精神が妨げているんですよ。

 

 はあ、年末になにしているんだか。

 年明け前にもう一つくらい投稿できたらいいなあ。

 

ゲヘナより哀を込めて。