虚勢の銀貨

東村の日々の記録

暇をつぶさない暇つぶし

 技術の発展は、確かに人の生活を豊かにしたかもしれません。半世紀前には、地球の裏側の住人とほんの数秒のラグだけで瞬時に連絡を取れるなんて、誰ができたでしょう。まして衛星電話や軍の通信を除いた一般市民が、です。

 

 さて、本日は技術の進歩に焦点を当てた話をしていこうと思います。先に挙げたように、私達は今、日進月歩の進化の渦中にいます。通常、歴史に残りかねない劇的な変化というのは数世紀に一度、と考えられがちですが第二次世界大戦後の70年でも指数関数的に発展してきました。

 

 ルネサンス以降、第二次世界大戦以前の技術革新を考えると、第一次産業革命の蒸気機関第二次産業革命の電気・鉄鋼・石油・化学、さらに20世紀に入ってからは原子力の利用までが可能になりました。第二次産業革命時に発明されたものは、現代の私達の生活の基盤にもなっていますね。今、先に挙げたものを使わずには一日も生活ができないでしょう。

 

 では、対する第二次世界大戦以降はどうなのか。すぐに思い当たるのは、半導体の発展です。それまで計算を代替する手段はソロバンのような、言うなれば原始的なものしかありませんでした。にも関わらず、精確無比な建築が現代まで残っていたりするからすごいんですよね。

 半導体は、かなり乱暴に言ってしまうとコンピュータの肝です。PCやサーバ、IT系企業でも相当深いところでないと馴染みのないメインフレームやスーパーコンピュータにも共通してCPUが載っています。一つ一つは細かいところを話すとキリがないので、規模の違いと考えてください。PC<サーバ<メインフレームスパコンの順に規模が大きくなるとだけ考えてくれたら構いません。

 CPUはコンピュータのコマンド実行の大本です。こいつがいないと何もできません。ごちゃごちゃした重い箱にしかなりません。「Intel入ってる」のフレーズでお馴染みのあれは「Intel製のCPUが入ってる」ということなんです。皆さんのPCがノートPCなら、キーボードの左下あたりにIntelのシールがありませんか? そのシールはどのCPUが入っているかを表しています。このCPUに半導体がいっぱい載っています。つまり、半導体のスペック=コンピュータのスペックなんですね。勿論、私達がコンピュータに求めることは各々バラバラですので、一概に「最新のCPUが最適解」とは言えませんが。

 

 この半導体ですが、年々技術の進歩に伴って小型化高速化が進んでいます。私達がコンピュータと呼んでいるのは、ほとんどが汎用コンピュータといい、最初期の汎用コンピュータは6畳の部屋を埋め尽くしても足りないくらい巨大で、それでいながら今では中学生や小学生もが持っているiPhoneに遠く及ばない性能でした。ここまで小型化に成功した機械が他にあるでしょうか。他の機械(巨大であることを目的に作られるもの以外)はものにもよりますが、1gの軽量化1cmの小型化のために文字通り血の滲むような努力や研究、研鑽の結果生まれてきます。それを考えると、コンピュータの発展というのは、にわかには信じがたいものがありますよね。

 

 さてさて、今回こうした技術の話から入りましたが、皆さんは技術の発展についてどのようにお考えでしょうか。新幹線の発明は国内の移動をこれまでにないほど快適化かつ短時間化させました。飛行機の発明はそれ以上です。紙でまとめていた帳票はexcelで簡単に作成できるようになりましたし、今ではexcelすら必要なくクラウド上に放り投げるだけで完了できます。以前は何日も待つか電話をしないといけなかった距離の相手に数秒でメールをできるようになりました。

 ですが、それが全て素晴らしく、両手を上げて賞賛することでしょうか。東京から大阪まで8時間かかっていた時にはそれなりに時間を潰すことができました。新幹線で3時間に縮まりましたが、今のようにリモートで仕事ができないときはちょっとした旅情を楽しんでいたと聞きます。今後、向こう10年以内にリニアモーターカーが実用され始めるようです。最初期は品川-名古屋間ですが、乗車時間は一時間を切ると言われています。そこまで急いで、一体何処へ向かうのでしょう。

 

 通信機器にしたってそうです。今の小中学生は、好きな人の家に電話をして「親が出たらどうしよう」と心配することがないそうです。全てスマートフォンで済みますから。ですから、文通相手から手紙が届くまでの、不安と期待と興奮と後悔と、いろんなものが詰まったあの青春の幻想とも言うべき気持ちも知らないんでしょう。

 技術は進歩して、今や布団から一歩も出なくても世界中のことを知れますし、仕事だってこなせます。昔、そうでなかった時代からすれば誇張表現でなく正しく魔法か夢のようでしょう。

 

 それでも、私は幾何かの寂しさを感じます。私達は、何もなければないなりに工夫する術を作り出す力があります。石器時代の人が暇で死んでいたわけではありません。中世の人が空き時間に絶望していたわけではありません。昭和の人が持て余した時間を無為にしていたわけではありません。時間があるときは、それなりに豊かで有意義なことに充てられていました。

 私が何かの創作者と話すときによく話題に挙がるのは「今の世界は加速的すぎる」ということです。技術の発展、それ自体は素晴らしいことです。便利になること自体はいいことだと思います。私だって、日々スマートフォンを使ってツイッターをしますし、PCを使ってブログを投稿しています。ただ、発展に伴って実世界よりネット世界で過ごす日が多い昨今、果たしてそれでいいのかと不安に思うこともあります。

 

 消費するだけでは、その人の内には何も生まれません。消費行動を反芻し、自省し、熟慮してやっと何か小さなものが芽生えるのです。それは反感かもしれませんし、同調かもしれません。ですが、その人の中に生まれたものは、その人だけのものです。与えられるものをひたすらに消費して、右に倣えの感想を持って、誰もが気付くところにしか気付けない。あまりに空虚じゃありませんか。それは別にあなたでなくても平気です。あなたでなくても抱ける感想で、あなたでなくても言える賞賛です。

 対して、その人がその人だけのものを持つには、やはり自分の中で消化して、自分だけが吸収する必要があります。そうした人にとっての消費行動は、言うなれば鉢植えに肥料を撒いたり花壇を耕して種を撒いたりするものです。その後、熟考という間伐や水やりを経てその人だけの花を咲かすんです。ただ、これには想像に難くないように時間がとてもかかります。水をあげたからすぐ花が咲く、ではないように新芽から若葉、蕾と育てなくてはなりません。しかも、実際の花とは異なって、完成形が目には見えません。つまり、今あなたが抱えているものが、ほとんど完成体だと思っていても、その実成長途中なのかもしれないのです。

 

 何故、科学の発展を冒頭に持ってきたか。私は、発展に伴う利便化と高速化は、この水やりに使うための時間を奪ってしまったのではないか、と思うのです。暇には暇の楽しみ方がありました。でも今は? 少しの間だけ、スマートフォンを閉じてあなたが好きだったものについて懐古する暇があってもいいじゃないですか。

 

 皆さんの胸にたくさんの花が咲きますように。

 

 ゲヘナより愛を込めて。