虚勢の銀貨

東村の日々の記録

死んだところで何も変わらないし

 つい先日、東京の後輩がわざわざ神戸にまで遊びに来ました。それまで一日一緒にいることなんてありませんでしたから、神戸観光に付き合って、その後夕飯と晩酌と、それなりに長い時間過ごしました。

 

 元々は大学の後輩なのですが、学生時代もそこまで付き合いが頻繁にあったわけではありません。キャンパスで会えば挨拶するくらい、空き時間が合えばカフェでコーヒーを飲む、それくらいの仲です。後輩も後輩で小説を書きますので、大体はそれについての話で終わっていたのですが、今回は時間が時間だけに(アルコールの力も相まって)平時はしないような話をしていました。

 特に印象に残っているのが、私の死期についての話でした。

 これについて、このブログ上で書くべきがどうか悩みました。受け取られ方によっては、私が彼の人達を愚弄する形になってしまいますから。ですが、どうせここは私の知っている人しか知りませんし、知っている人の中でも更にごく一部の人しか読んでいないでしょうから、半ば投げやりに書こうかな、と思います。

 

 私、何処で聞いたかはもう覚えていませんが「26歳で死ぬ」と言われているんですよね。別に余命宣告でもなく単なる占いで、ですが。死ぬ理由も「交通事故」「食中毒」「通り魔」みたいなものなら正常性バイアスが効きますから笑い飛ばせるんですけど、その時聞いたのは「もう生きる理由がないから」。正しく、今後の私を表しているなぁ、と感じました。この理由だからきっと自殺でしょう。

 発達障害で心臓病持ちとはいえ、私の心臓は手術を要したり、投薬治療を続けたりしないといけないものではありません。本当は年に一度はホルタ―心電図(体にマッサージ用電気シートみたいなものと初期のiPodくらいの記録機)を付けて記録取り兼検診を受けないといけないんですが、それもここ数年面倒で行っていません。つまりは何年も検診を受けないで問題がない程度の疾患なんです。

 だから私が行うであろう自殺は、単純に私の生命に対する権利の放棄に過ぎません。私の身体と同等の健康度合でも生きたい方はたくさんいるでしょう。私の身体と代われるならいくらでも出資を惜しまないという人もいるでしょう。でも私は、それだけのものを持ちながら自分で放棄することを選ぶそうです。

 

 これがブログへ書くことを躊躇った理由です。私自身、それなりに大きな病にも罹ってきましたが、結局は回復してそれなりに生きています。そのことが様々な理由でままならない人にとって、これから取るかもしれない私の選択は侮辱と取られても仕方ないことかもしれません。

 

 さて話を戻しましょう。これについて後輩に簡単には伝えていました。普段から飄々とした私のことですから、きっと悪い冗談のように取られていたんでしょう。その日、どうして自殺なんて手段が選択肢に入るか、そもそも死ぬことをどう思っているのか、結構詰問されたと思います。まあ、後輩本人は泥酔していましたから、覚えていないかもしれません。

 後輩曰く、「自殺というのは生きていることに耐えられないほどの辛いこと、凄惨なことがあって、その結果として選んでしまう悲しい結末」でした。悲劇の物語でも度々取り上げられますが、愛する人の死去や不治の病、現実的なものですと借金や老老介護、将来への不安、そうしたものがあっての自殺ということです。その点私は、恋人こそいませんが目標があってそれなりに安定した企業に勤めていて、バイクのローンを除外しては借金があるわけではありません。なのに何故? 

 

 正直なところ、なんて言っていいのか分かりません。生きていれば美味しいものを食べられて綺麗な景色を見られて、たくさんの人と知り合えて、素晴らしい作品にも触れられて、愛する人と巡り会えるかもしれません。ただそれと同じくらい誰にでも訪れる死が魅力的ということもあります。身体的寿命を全うする前にそれに飛びつくのは、言うなれば税金の前納みたいなものですよ。

 それに、多分私は疲れたんです。生きていて何があるというんですか。どんな幸運が私に下りるというんですか。努力は実る? 苦労は無駄にならない? 馬鹿も休み休み言えよ。誰かが幸せになる分、その影で不幸を見ている人が必ずいます。私が小説で大賞を取ればその分取れずに泣く人がいるでしょう。私に恋人ができればその人と本当に付き合いたかった人が泣くでしょう。私が仕事で成功すればでできなかった人が割を食うでしょう。逆もまた然りです。

 私はそんな、四六時中競争を強いられるこの世界に嫌気が差したんでしょう。実際にどうなのかは私にも分かりませんが、多分、そんな気がします。

 

 「惰性で生きることはできる」とも言われました。「自殺する気概があるなら惰性で生きていたったいいじゃないか」とも。ただね、ここはもう私と後輩の立っている前提が最初っから反対を向いているんです。後輩はハイボールがウィスキーの炭酸割りということを知りませんでした。兵庫県の城崎に温泉があることを知りませんでした。真水の川にサワガニが生息することを知りませんでした。でも、それでもここまで問題がなく生きてこられるだけ慈愛に満ちた中を生きてきたのでしょう。

 私は無知な人が嫌いです。更に言えば、無知なままでも生きられてしまうその人の適応力、無知なものを蹴落とそうとする悪がいない、もしくはそうしたものから守ってくれる存在がいる世界に生きる人が嫌いです。羨望となじろうが、嫉妬と糾弾しようが構いません。だってそうしないと、一人で生きられるように鍛え上げてきた自分が惨めでみっともなく映るじゃないですか。今まで独力で戦おうとしていたことが、全て徒労になってしまうじゃないですか。25年、今まで私がやってきたとこが意味を失うじゃないですか。だからきっと、私は後輩が嫌いなんです。羨ましい世界に住んでいるから。

 

 「これ以上生きる理由がないから、26歳で死ぬ」

 素晴らしい口説き文句です。だって、26歳以降は頑張らなくていいんですから。

 私は1993年10月7日に生まれました。だから、2020年10月6日までには死ぬでしょう。あと一年半。きっと何も成し遂げずに誰の記憶にも残らずに、路地裏に転がる空き缶みたいに、何度も何度も踏まれて真っ黒になった軍手みたいに、汚らしくくたばっていることでしょう。何が楽しくて生きないといけないのか。

 

 来年以降も生きる予定の皆さんに、私が生きていれば享受するはずだった幸せが降り注ぐように。

 

ゲヘナより愛を込めて。