虚勢の銀貨

東村の日々の記録

和を排して尊しとなし

 なんというか、世の中って他人に興味を持っている人が大勢いるのか、団結心が強すぎるのか分かりませんが、基本的に大きい守護で語りがちな人、多いですよね。

 

 私なんかは基本的にソロプレイヤーですから、周りの人が何をしていてもそこまで気にならないタチなんですよね。それこそ私の友人知人、家族以外が(乱暴な言い方ですが)何処かで事故っても病に臥せっても、正直なところどうでもいいんです。私は私の世界っていう閉じた世界で生きているつもりですから、それ以外の世界のことは注視する範囲内に入ってこないんですよ。

 だから、先日も内田裕也さんが亡くなった、とニュースになりましたが、反射的に出る「ご冥福をお祈りします」という言葉以外さしたる感想がないんです。実際、私は内田裕也さんの活動をほとんど知りませんし、内田さんのことも「何やらロックなおっさん」くらいしか分かりません。別に故人を侮蔑するわけではなく、誰に対してもこれくらいのスタンスです。

 

 私のことを薄情だと思いますか? でもね、皆さんの多かれ少なかれそういうところあるんじゃないですか?

 有名芸能人Aが不倫をしました。それに怒るのは結構。有名企業のBが脱税していました。それに憤るのも結構。有名画家のCが病のため亡くなりました。それに胸を痛めるのも結構。ですが、これはあくまで日本人に限った話ですよね。きっとこうしたことに何がしかの感情を動かされる人は共感力が高くて、日本という世界で生きている実感があるのでしょう。

 ただ、これがベネズエラのカルロス・ロッソさんが奥さんに不倫されてそれに心を病んで自殺しました、となればどうでしょう。同情できますか? 共感できますか? 基本的に人間なんて自分の見える範囲でしか生きていられないんです。しかも、見えていると思っているところも見えていません。

 

 だから不用意に主語が大きくなるし、無駄に議論の幅を持ってしまうんです。人一人が見られる範囲なんて、結局のところ自分の身の回りが精々でしょう。それ以外のこと、それ以上の場所は代数を置いて類推しているに過ぎません。大企業の社長は末端の社員の仕事まで完璧に把握しているでしょうか。共同体の首長は一戸一戸の家庭の声まで汲み取れているんでしょうか。違うでしょう? 前者は各部署や事業所から上がってくる実績数値で判断していますし、後者は支持率や満足度という数字で判断しています。

 代数にすることでかなり多くの情報が欠落してしまいます。それが分かっていない人が上に立つと「こんなはずじゃなかった」となるんです。人の上に立てる人というのは、きっと私のような小市民とは違う才能を持っているはずです。マネジメントであったりカリスマであったり実績に基づく判断力であったり、だからこそその立場にいるわけです。つまりは視野を広く見るプロですよね。プロができないことを一般の市民ができるでしょうか。私はね、無理なんじゃないかと思うんですよ。そうしたことを生業にして一日中考えているような人ですら誤るんですから、片手間で正確にできるはずなんてありません。

 

 にも関わらず、世間の人は自分の視野が広く、かなり多くのことを判断できると自惚れています。断言します。それについては完全な自惚れです。自分のことも大して分かっていない状態で、よもや自分の外、世界や他人の領域まで判断の触手を伸ばせると考えるなんて。

 私が何について言及したいかというと、端的にはLGBTの問題なんですよね。正直なところ、私にとってLGBTは大した問題ではないんですよ。いえ、そうした人達が嫌いとか蔑視して注目に値しないとか、そんなことではありません。なんなら私自身Bのバイセクシュアルに属するものですが、だからそれが何になるというんでしょう。

 性的志向性的嗜好を勘違いする馬鹿に何を期待することがあるでしょう。全く知らない赤の他人に後ろ指をさされることに何を病む必要があるでしょう。私はね、LGBTに限らず種々の社会問題についてはほとんどすぐに解決できると思うんです。それはとても単純なことだと考えています。

「大局として他人に全く干渉せずに、数値のみで判断する」

 これさえできれば、少なくとも男女の差にまつわる問題は解決できると私は踏んでいます。

 あくまで大局として、ですから個人間はまた勝手が違うと思いますが、国会で無駄に議論しているようなことはなくなるでしょう。

LGBTは子供を持たないから生産性がない」と発言した議員がいました。これにしたって、個人を共通意識の中に組み込まなければ問題にならないはずです。私とてバイセクシャルの当事者として、同性のパートナーができる可能性がありますが、「うん、別に」というのが感想です。LGBTの件は何も現代になっていきなり現れたことではありません。確かに近年、そうした声が大きくなり様々に発信する人がいるのは事実ですが、人間が社会を持ってから少なからずあったことです。そうした人は共同体の圧力で無理やり結婚させられて無理やり子供を作らされたことはあるかもしれませんが、殊現代日本に至っては晩婚化未婚化が進み、そうしたことを考える必要はないのでは、と思います。

 

 現在、同性婚を容認しようという世間の流れを微弱ながら感じていますが、法案として通らなければ同性のカップルは今まで通り二人で暮らしていく、というのが当面の見通しではないでしょうか。オーストラリアで同性婚の法案が論議された際、こんなことを言った議員がいました。

「今、私たちがやろうとしていることは「愛し合う二人の結婚を認めよう」。ただそれだけです。

外国に核戦争をしかけるわけでも、農作物を一掃するウイルスをバラ撒こうとしているわけでもない。

お金のためでもない。単に、「愛し合う二人が結婚できるようにする」この法案の、どこが間違っているのか。だから、本当に理解できないんです。なんでこの法案に反対するのかが。自分と違う人を好きになれないのはわかります。それはかまいません。みんなそんなようなものです。

この法案に反対する人に私は約束しましょう。水も漏らさぬ約束です。

明日も太陽は昇るでしょうし、あなたのティーンエイジャーの娘はすべてを知ったような顔で反抗してくるでしょう。明日、住宅ローンが増えることはありませんし、皮膚病になったり、湿疹ができたりもしません。布団の中からカエルが現れたりもしません。明日も世界はいつものように回り続けます。だから、大騒ぎするのはやめましょう。この法案は関係がある人には素晴らしいものですが、関係ない人にはただ、今までどおりの人生が続くだけです。」

 

 

 まさしく、この通りじゃあないですか。別にLGBTに限ったことではありません。個人が起こすこと、個人の人生が果たして無関係の赤の他人にどんな影響をもたらすでしょうか。

 一度も会ったことがない芸能人が不倫をしたと騒いだところで、私の給料が上がるんでしょうか。全く面識のない声優が結婚したと喚いたところで休日が増えるんでしょうか。向こうがこちらを認識しない他人についてとやかく言ったところで自分の人生を豊かにできるんでしょうか。

 日本が素晴らしいから日本人が素晴らしいわけではないし、伝統工芸が世界遺産になったから日本に住む第三者が崇められるわけじゃあないんですよ。私はね、自分のこと以外のことを自分のことのように話せる人、主語がとてつもなく肥大している人の言うことが信用できないんですよ。こう言っている私の主語も大きいのかもしれませんが。

 私達社会を生きる人間が、もう少し周りに無関心になればマイノリティは生きやすくなっていくはずなんです。権利を求める声、制度を求める手を阻害するのは、良識や常識という盾の下に行使される暴力の矛です。

 生憎、その矛を収めさせるのは法ではなく後ろ盾となる良心なんです。良心があって、その影にいる人達を守ろうとするあまり、振るう範囲が広く不必要に人を傷付けていることに気付けません。いきなりその線引きをしろと言っても、およそ大多数にとっては難しいと思います。

 ただ、自分に本当に関係する範囲のことにだけフォーカスするのは別段そこまで難くはないはずです。

 隣人同士が手を繋ぐ反吐が出る世界から、手を自分のために使う独立した世界へ、そうした方が誰もが生きやすくなるとは思いませんか。

 

ゲヘナより哀を込めて。