虚勢の銀貨

東村の日々の記録

出場通知を抱きしめて、あいつは海になりました

 今日知りましたけど、日本人が夢を諦める平均年齢って24歳なんですってね。

 24歳、確かに転換点の歳だと思います。大学をストレートに卒業して就職していれば二年目、大学院なら修士課程でしょうか。高卒で働いていると大体五年目ですね。それくらいの時期に人は、特に日本人は夢を諦めるそうです。理由は「自分の限界を感じたから」。悲しいことですね。きっと夢というほどですから、生産的なことなんでしょう。物作りや絵描き、歌やダンス、そういったものを発信する人になりたくて努力して、それでも24歳になれば「自分に才能はなかった」と諦めてしまうんです。

 

 今の日本、政治の話ではなくポップカルチャーの話として、新規のものが育ちにくい環境だなって常々感じています。日本人の保守思想とでも言うんでしょうか。「前例がないから」「今までこういうのは流行っていないから」と新進気鋭の作家が切られたという話は底が尽きません。今新人が世に出られる環境がどれだけ整備されているでしょう。

 小説は年間に数十の新人賞がありますが、ジャンルを絞ってしまえば年間五本がいいところでしょう。エンタメ、ロマンス、純文が五本くらいずつで、ホラー、SF、ファンタジーが二本くらいかな、と思います。それでいて出版社は「なろう」の十把一絡げな異世界転生やら無根拠なハーレムやらを拾い上げますから真剣にやっている側としては勘弁してくれってなりますよね。もちろんなろうに投稿する人にはその人なりの、出版社には出版社なりの努力や論理がありますから、それを批判するのはお角違いですね。

 

 閑話休題、新人発掘の場に目を向けましょうか。コニータルボットって歌手をご存じですか? 弱冠6歳で歌手デビューしたイギリスの少女です。その彼女がデビューするきっかけとなったのがテレビ番組『Britain’s got talent』でした。簡単に言えば、歌手やパフォーマーの卵を競わせるテレビ番組です。後ろ盾もなにもなくとも、純粋に自分のスキルで勝負できる世界です。コニーは出場した際、準優勝に終わりましたが、その時優勝したのは現在ではオペラ歌手として活動するポールポッツでした。歳で補正しようというわけではありませんが、成人男性と6歳の幼女が優勝をかけて真っ向から勝負できる場なんです。勿論、コニーやポールのように優勝や準優勝といった輝かしい功績を残せずとも、編集者やプロデューサーの目に留まればデビューへの道も拓けていきます。

 何が言いたいかというと、同じことを日本でもやればいいのにってことなんですよね。現在の日本は特にテレビ界隈は酷いもんだと感じています。バラエティは芸能人の仲良しサークル、下世話で品がないかお涙頂戴のヒューマンドラマ、自国上げをしたいだけの何番煎じかも分からない量産番組、そんなものばかりが流れているイメージです。10年前、15年前はまだ違ったように思うんですけどね。

 私は基本的にテレビを見ませんが、帰省すると点いているのでたまに見ます。この前、女子高生のダンスサークル?で大会の様子が放送されていました。パフォーマーやダンサーの事務所(があるのかはわかりませんが)へ向けたプロモーションではなく、蓋を開けてみれば、準優勝のチームにフォーカスして「頑張ったけど負けちゃいました」みたいな論調でした。彼女らの努力を笑うわけではありません。ですが、他のチームもみんな一様に最善の限りを尽くしてあの場に立っていたはずです。それを、お茶の間の暇つぶしとして放送するのはあまりに侮辱していませんか?

 未成年が頑張って報われなくて泣けば素晴らしいんですか? バッカじゃねーの、ってなりますわ。しかもそれを放送して喜ぶなんで腐っていますわ。どうせ放送して番組とするなら、特に表現者を取り上げるなら、登竜門になるくらいのことをしろって思いますね。

 

 この前帰省したときに高校の友達と飲みました(二人とも酒は弱いので、ご飯だけになりましたが)。高校時代から仲良くしてもらっていまして、私が出す話題でも嫌な顔せず付き合ってくれる優しい友人です。私とは畑が違いますが、彼、映画監督を目指しているんです。私もそれなりに映画は観る方ですが、やはりそこを目指す彼は絶対的に比較にならないほど鑑賞していました。観る作品から学んで、考察して、技法を見て、そうしたことを欠かさない人です。

 私はまだ彼の作品を観たことがありませんが、きっと面白い作品を作ってくれると思います。

 小説と映画で大分作品に対するアプローチや考え方が違いますよね。普段映画を見ていても、「小説ならこうできるのに」と思うことも、「小説じゃこれはできないな」と思うこともあります。特に、スピード感を出すもの、例えば派手なアクションなんかは小説よりも映画向きのシーンでしょう。対して、心内表現やじわりと伝わる情景描写は映画よりも小説のほうが得手とするものではないでしょうか。もちろん総体として、の話ですので例外はありますよ。

 彼と話していて出てきたのが、上記で話したようなことでした。殊、日本に関しては映画にしろ小説にしろ、創作活動をするにはかなり厳しい環境ばかりが揃っているというものでした。二人とも外国で暮らしたことはないので海外のそうした環境に明るいわけではありません。ネットやその界隈で言われるようなことしか知らないにすぎませんが、体感として日本でそうした活動をするのは、少なくとも大々的に発信して動くのは難しいな、と感じています。

 例えば小説。私が小説を書き始めたのはネット小説を入れれば中学生の頃でした。今息をしているかわかりませんが、当時モバゲーと連携したエブリスタの方で細々とやっていました。付き合いの長い友人たちは私がそんなことをしていると知っていたんですが、中学生の一過性熱狂で、受験シーズンを迎えるあたりにはしなくなっていました。本格的に?小説を書こうと思ったのが大学三年でした。まだプロットの作り方の片鱗さえも知らない頃でした(今も分かっているか微妙なところですが)。その時に、別の友人が私の部屋に来たんです。中学の頃にネット小説をやっていることを知っている一人です。

「まだ小説なんて書いてるの?w」

 言葉面だけ見るとかなりトゲのあるものですけど、実際のところは仲間内の軽いノリな口調でした。でもね、やっぱりズキンと来たんですよ。「”まだ”書いてるの? 大学生にもなって?」「小説”なんか”」、多分当人は悪気はなかったでしょうし、多分一般人(?)として正しい反応なんだと思います。

 基本的に功利主義社会、全体主義社会な日本では創作活動のように周りと違うことをするのは、それこそ目覚ましい結果を起こさない限り白い目で見られます。偏見やトラウマでもなく、事実としてそうなんですよ。きっと私や、他の作家志望の方にもこういうものは根付いてしまっているんです。たまたま”創作活動”についてはそう思わないだけで、例えば芸術としてのSMやボディサスペンションのように特異性の強いものについては顕著だと思います。私自身、ボディサスペンションは生で見てみたいですけど、そう思わない人もいるでしょう。自分のポリシーで髪を派手にしている人や、自己表現としてピアスやタトゥーをしている人にも、「いい年して何やってるの」「気味悪いことしないで」、そんな眼差しがないと言い切れますか?

 侮蔑とまでは言い切りませんが、自分の領域にないもの、未知のものに対する無条件の排斥感情は、きっと誰の内側にでも巣食っているんです。創作、なんて高尚なように聞こえますが、それについても同じことが言えます。「これが売れて金になる」、そんな大義名分があればまだ違うんでしょうが、そうなれるのなんて一握りです。小説にしろ映画にしろ、趣味ではなく一つ上の段階を目指す人たちにとって、「金にもならないのに」「本当に才能がある人しか無理」「いつまで夢見てるの」、些細な一言は、時に人生の方向性を歪めるには十分すぎるほどの威力を持っているんです。

 

 きっと、日本人が否応なくそうした環境や言葉に晒されるのが24歳前くらいなんでしょうね。実際には、自分で「自分には才能がない」と断じてしまうのではなくて、周りからのそうした圧力で毒されて、自分の意見のように感じてしまうまでの期限なのでしょう。

 確かに脳科学的に、人の脳が柔軟性を新たに得にくくなって、つまり急進的な成長をしにくくなっていくのは25歳くらいとは言います。歴史に名前を残すような天才はもっと若い頃から活躍していまる現実はあります。でも、それと同じくらい壮年になってからデビューしたり、返り咲いたり、大きく成長したりする人もいるじゃあないですか。『さよならドビュッシー』で有名な中山七里さんだって47歳でデビューでした。『ヨハネスブルクの天使たち』で有名な宮内悠介さんだって33歳でデビューしました。

先人たちが、私たちに影響を与えて、カリスマの鑑のようになっている先人たちがそこまでやっているのに、私たちが24歳で諦めてしまうなんて勿体ないじゃないですか。

 

 今の24歳って、多分ゆとり教育まっさかりか、終わってすぐくらいの世代でしょう。「これだから最近の若いのは」「これだからゆとりは」なんて揶揄して後ろ指をさす昭和脳の馬鹿共にも、「まだそんなことやってるの?」「いい加減現実見たら?」と達観したように語る大衆に迎合することを選んで、流されることに楽を覚えた怠け者の戯言に耳を貸す必要がどこにありますか。世間の波に杭打って抗っていきましょう。指してくる後ろ指をへし折ってやりましょう。建設的でない意見を嫉妬だと嗤ってやりましょう。

 私のブログを読んでくれている人達はきっと、何かを創らないと自分の中身が溢れてしまう人ばかりでしょう。外界へ、まだ見ぬ自分のシンパへ、誰かになるかもしれない第三者へ、自分の作品を発信していかないと乾いていってしまう人でしょう。

 私は別に然して立派なことを言えるわけでもありませんし、影響力があるわけでもありません。でも、あなたが世間の、「創作なんて暇人のやること」と言う流れに真っ向からぶつかっていくなら、私も別の場所で同じようにぶつかりましょう。

 別に近い人に認められなくたっていいじゃないですか。別に世間に白い目を向けられたったいいじゃないですか。作らないと生きていけないから作っているんです。作りたいから作っているんです。それで十分じゃないですか。

 

文字にしろ映像にしろ、彫刻にしろ音にしろ、私はあなたの作った物語に触れるのを楽しみにしています。

 

全ての創作者へ

ゲヘナより愛を込めて。