虚勢の銀貨

東村の日々の記録

泥人形は人様の夢を見るものです

 「パパ活」なんて言葉が耳慣れてきましたね。ある程度経済的に余裕のある男性と食事や買い物をして、その対価として金銭を受け取る、言うなれば援助交際です。パパが娘にお小遣いをあげる様子をなぞっているんでしょうが、「パパ」が対価として要求されるのは、およそ娘へのお小遣いとは文字通り桁が違うものです。

 少し前に見た何かのインタビュー記事ではトップランク(笑)の売女はパパ活で年間1200万円もの大金を荒稼ぎしているようです。きっと彼女らは贈与税なんてものは全く考えておらず、バイト代90万/年に所得税が多少かかる程度でしょう。

 

 この手の社会問題に対しては「卵が先か、ニワトリが先か」のようなトートロジーに陥りがちですが、私としては供給があることが諸悪の根源ではないかと考えています。性産業に関しては、本当に需要があることが間違っているのか、供給があるから需要が生まれるのか、となりますが、現状この歪んだ援助交際の形は供給から端を発しているとしか見えません。

 少し前にツイッターの水面下で横行した「裏アカウント」を媒介とした援助交際にしてもそうですが、近年若い人が自分の価値を簡単に金銭に置き換えすぎではないかと思います。援助交際自体が社会的に問題視され始めたのは、ウィキペディアによると1994年あたりらしいですね。携帯電話やポケベルが普及して、見知らぬ人との接触が容易になり始めたからでしょう。そこから手を変え品を変え、今に至るまで延々続いています。

「ホ別苺」、ホテル代は別として一万五千円で性行為をする、という意味です。自分の身体をたった一万五千のはした金で売るというのはどんな気分なのでしょう。

 

 ただ、私は彼女らを羨ましくも思います。彼女らは自分の時間や身体が、それだけの価格で他人に需要があると信じていられるんですから。それは若さからくる無謀か、それとも客観視できないことからくる価値の放棄かは分かりませんが、自分の一晩が商品になり得るという点に関して疑念は持っていません。勿論、恐らくそんなことをする売女に自分の価値を金銭換算して考える能があるとは思えませんが、自分達の価値については自信を持っているはずです。

 

 私のような泥人形からすれば、これはすごいことです。曲がり間違っても、私は自分に対してそこまで高い価値を求めることはできません。私の一晩、よくて缶コーヒー一本分くらいでしょう。性行為なんてもってのほか、何をするにしても私の価値に、万の値が付くことはあり得ません。

 

 パパ活援助交際もさることながら、レンタル彼氏やレンタル彼女も大したものだと思います。男にしろ女にしろ、道徳観を破壊するようなサービスにある程度の価値が(判断する個人によるものにせよ)付与されることは理解できますが、およそデートなどという誰しもが容易に提供できる部分を商品化し、あまつさえそこに自分の売り出すということは相当の自信があるのでしょう。しかもレンタルということは、前提となるものがない他人に対して「私と過ごす時間にはこれだけの価値がある」と標榜することでしょう? 傲慢とも言えるその姿勢に、私は感服します。

 

 世の人間様はどうしてそこまで自分の価値を信じられるのでしょう。どうして他人に必要とされる、と宣言できるのでしょう。私だって25年間、それなりに積み上げたものはあります。ですが、それが金になるとは思えません。他人様に身銭を切ってまで買ってもらうものだとは考えられません。私が泥人形だから特別ネガティブなのでしょうか。それとも彼ら彼女らが選ばれた人種なのでしょうか。

 

 なんとなく虚無い、いつもと変わらないクリスマスからお送りしました。

 

ゲヘナより哀を込めて。