虚勢の銀貨

東村の日々の記録

ちょっとしたお酒の話

 皆さんお酒はお好きですか? 私は元々アルコールに弱いので程々ですが、嫌いではないです。やっすい居酒屋の工業水みたいなものはダメですが、ちゃんとしているバーなんかでは多くて四、五杯くらいですかね、そのくらいは飲みます。ツイッターにも上げてますが、最近は晩酌しながら本読んだりもしていますよ。頭痛がするほど飲んだら何をするにもままならないですが、程々なら余計な力が抜けてすんなり頭に入ってくる感じがして、結構好きです。

 

 アルコール、好きな人は本当に好きですけど、ダメな人は本当にダメですよね。ご存知の方も多いかな、と思いますが、これって分解酵素の分泌率の差なんですよね。

 高校の生物や化学で知っている人もいるかもしれませんが、アルコールは体内に吸収されると、肝臓の分解酵素の働きでアセトアルデヒドという物質に分解されます。このアセトアルデヒドが厄介で、強い毒性を持っています。これの血中濃度が高くなると”酔う”ことになります。なので、飲酒の際には「悪酔いを防ぐために同量の水を飲む」方法が推奨されているんです。そもそもの血中水分量を増やして、アセトアルデヒドの割合を相対的に下げようってことですね。

 このあと、件のアセトアルデヒドは血流に乗って体のいろんな場所に運ばれます。その後、体の各部位で酢酸、要するにお酢へ分解されます。アルコールが全くダメな人はこのアセトアルデヒド分解酵素が分泌しにくい/しないから長くそれに苦しむことになるんですね。酢酸は水と二酸化炭素に分解されて排出されます。これがアルコール分解の一連の流れになります。

 

 ちなみに、なんですが、アルコールが好きな人、特におっさん世代の人って「ビールっ腹」て言われるみたいに、それなりにわがままボディな人が多いですよね。これ、「アルコールを飲む=太る」ではないんです。アルコールって純アルコール(度数100%)1gあたり7kcalくらいあります。どれくらいかパッとしないですか? 以下の計算式を見てください。

 純アルコール量=飲み物の総量×度数×0.8(アルコール比重)

 なので、一般的な缶ビールに当てはめると、

 純アルコール量=350(ml)×0.05×0.8→純アルコール=17g、となります。

 

 17(g)×7(kcal)=119(kcal)、つまり、缶ビール一杯に含まれるアルコールのカロリーは119kcalなんですね。それにプラスして麦芽やらホップやらも原料に使われていますから、カロリー計算をするにはその分も追加しないといけません。低脂質や低カロリーをうたっているものもありますが、アルコールを使っている以上、一定のカロリーはあるます。

 更に、アルコールって体が最優先で分解しようとするんですよ。だから、食事中に飲酒すると、食べたものの分解よりもアルコールの分解が先に行われるわけです。体って結構いい加減ですから、「アルコール分解が終わるまで食事の受け入れは先にしょう。その間、胃に留めておこう」なんてしてくれません。ならどうするか。食事の吸収とアルコール分解を同時に行うんです。端的に言えば、アルコールを分解しきるまで食事分は吸収し続けるんです。

 これが「酒を飲むと太る」と言われる理由ですね。肴には刺身や漬物みたいに軽いものばかりでなく、揚げ物やナッツ類がよく合わされますね。美味しいのは分かりますけど、どちらかは控えめにしないと……。

 

 まあそんなこんなでアルコールに不利な面ばかり書きましたが、実際のところ、皆さんどんなアルコールが好きですか? 私、蔵造酒がダメなので、スピリッツ、もっぱらウォッカかジン(もしくはそれベースのカクテル)ばかり飲んでいます。

 蔵造酒と蒸留酒の違いも軽く書いておきましょうか。かなりざっくり説明すると、ワインや日本酒のように原料を発酵させて作るのが蔵造酒、それを蒸留したものが蒸留酒になります。なので蒸留酒、メジャーなもので言えば、ウォッカ、ジン、テキーラ、ウィスキー、ブランデーの五大スピリッツと焼酎、泡盛でしょうか。蒸留しているので、色はついているもののクリアに透けているものばかりですよね。対する蔵造酒は発酵させたままなので、端的には日本酒のにごり酒のように、透き通ってはいませんね。蔵造酒の方が酔わない、蒸留酒の方が酔わない、みたいに体質の差があるようです。ちなみに私は日本酒がまるでダメです。。。

 

 さてさて、ようやっと本題に入っていきましょうか。今回、私の好きなお酒を簡単に紹介しようと思ったんです。専門家ではないので本当に簡単に、素人意見丸出しで紹介していきますね。今まで飲んだ中での私からのおすすめですので、賛否両論あると思いますがそこは目を瞑ってください。

 

  1. グレイグース

f:id:Gleich_Sterbe:20200721201213j:image

 言わずとしれた私のハンドルネームでもあるグレイグースです。ボトルが可愛いですね。プレミアムウォッカに数えられて、ウォッカの中でも特に飲みやすいな、と感じています。普通、想像されるウォッカって無味無臭でアルコールの苦みだけがあるって感じですが、グレイグースはアルコール臭を抑え、ほんのりフルーツっぽい香りが鼻から抜ける感じです。度数もそれなりにあるのでぐーびぐびというわけにはいきませんが、ロックでじっくり風味を楽しみながら飲むのもおすすめです。

 ノーマルだけでなく、ポワール(洋ナシ)、シトロン(レモン)、オランジェ(オレンジ)のフレーバーを追加したフレーバーウォッカとしても人気です。

 

  1. シロック

f:id:Gleich_Sterbe:20200721201307j:image

 私のハンドルネーム、始めた当初はシロックでした。こちらもプレミアムウォッカで、上記のグレイグースを超える飲みやすさと思っています。よくお酒を評価するときに「喉越しがいい」「なめらか」「口当たりがいい」なんて言いますけど、それまでは正直分かりませんでした。ですが、このシロックを飲んだとき初めて「なめらかってこういうことか!」と実感しました。今も節目節目に飲みたくなります。また、シロックの特徴として、原料がブドウなんですよね。普通のウォッカは大麦、ライ麦、トウモロコシ、要は穀物なんですが、このシロックはブドウなんです。だから、飲むとほんのりブドウの香りが漂います。ロックでもストレートでも美味しいウォッカですよ。ボトルもカッコイイですし。

 

  1. ストリチナヤ

f:id:Gleich_Sterbe:20200721201334j:image

 上二つに比べてしまうと見劣りするかもしれませんが、十二分に美味しいよくできたウォッカです。グレイグースとシロックが、後味甘めだったのに対して、ストリチナヤは香辛料っぽい芳香が抜けます。映画『アトミック・ブロンド』でシャーリーズ・セロンがことあるごとに飲んでいたウォッカがストリチナヤです。低価格帯ながら、嫌みやえぐみがなく、すっきりしていて特に水割りで飲みやすいと思います。最近私が飲んでいるのもこのストリチナヤです。

 

  1. サイレントプール

f:id:Gleich_Sterbe:20200721201352j:image

 今度はジンです。ジンはウォッカと同じく穀物を原料として作られますが、特徴となるのはその香りでしょう。ウォッカでもテキーラでもないあの香りは、ジュニパーベリーって名前のスパイスで香り付けされているからなんです。更に最近、クラフトジンなるジャンルが人気でして、すっごく雑にいうと日本酒における「地酒」みたいなものでしょうか。いろんな蒸留所が各々のやり方で(もちろんジュニパーベリーは使って)ジンを作っています。

 そんなクラフトジンの中で、とりわけ美味しいと思ったのがサイレントプールです。まずボトルが綺麗ですよね。ボタニカルな柄の中に、確か女性のシルエットも紛れていたはずです。ランスロットの物語だったか、レーテーだったか、ナルキッソスだったかの話をモチーフにしているらしいですが、すみません、失念しました。

肝心の味は、とても香りの高いもので、さっぱりと飲みやすく作られています。香り付けには24種類もの花やハーブ、スパイスが使われていて、「香水を思わせる」なんて評価も受けるほどです。いつも飲んでいるジントニックビーフィーターボンベイサファイアで作られてると思いますが、たまにはサイレントプールに挑戦してみては如何でしょう。

 

  1. ヒィプノティック

f:id:Gleich_Sterbe:20200721201406j:image

 スピリッツが続いたので今度は、パイナップルやキウイ、ベリー系のトロピカルフルーツのリキュールです。フランス語で「催眠」を意味するらしいですが、酩酊するほど強いわけでもなく、これを使ったカクテルはお酒が強い人ならジュース感覚で飲めるでしょう。味としては先述の通り、フルーツの酸味と甘みがバランスよく仕立て上げられていて、炭酸で割るだけで充分美味しく飲めます。配合の完成度が高いので、そのままロックで飲んでも嫌なアルコール感もなく、レモンやライムを絞ればよりさわやかに香ってきます。

 アルコールが弱く(私もそうですが)、でもバーに行ってみたいって人にはこれで作ったカクテルをおすすめしたいですね。雰囲気を壊しませんし、コンセプトバーでもない限り大体置いてある気がします。これからの季節にピッタリなリキュールです。

 

  1. パルフェタムール

f:id:Gleich_Sterbe:20200721201423j:image

 最後はこれまたあまり見ない、スミレのリキュールです。場所によっては「バイオレット」とだけ呼ばれることもあります。柑橘系ベースに薔薇やバニラ、そしてその由来にもなっているニオイスミレで香りづけした一本です。ここではスミレのリキュールて意味で紹介しますね。

 色は濃い紫で、見るからに艶やかですよね。上に挙げた五本と比べても、一番強い香りがあります。飲む瞬間には香るくらいですが、飲み込んで喉を通ってから爆発するように一気に鼻に抜けていくんです。カクテルベースとして使われることがほとんどかなと思いますが、間違っても今いい感じになりそうな相手とのデートで、このリキュールを使った「ブルームーン」なんてオーダーしないでくださいね。カクテル言葉が「叶わぬ恋/できないお願い」ですから。逆にスマートに断りたいときにはいいかもしれませんね。

 特に「バイオレットフィズ」なんてかなり飲みやすい部類なんですが、香りも相まってアルコール感を感じにくく、気付かないうちに酩酊一歩手前なんてこともありますから注意です。ブルームーンと反対にバイオレットフィズのカクテル言葉は「私を覚えていて」なんですよ。同じ色のワスレナグサを連想させますよね。

 私は飲んだことないんですが、香りづけ、ブレンド、着色一切なしの「マリエンホーフ ヴィオラ」っていうのもあります。まじりっけなし、正真正銘スミレのみのリキュールなんです、一度は飲んでみたいですねえ。

 

 

 さて、かなり長くなりましたので、今日はこのあたりで。

 医学界権威のLancet誌で「適正飲酒量など存在しない。健康を害さない飲酒量はゼロが望ましい」と発表されてしまいましたし、皆さんも程々にして、間違っても私の後輩みたいにふらふらになるまでは飲まないでくださいね。

 

 それでは良い晩酌を。

 

 ゲヘナより愛を込めて。

冷たい水の中を震えながらのぼっていくような

 「言葉狩り」なんて、よもや生きているうちにここまで派手に行われるとは思わなかったですよね。

 少し前、COVID-19の騒ぎが一時鎮静化したかなってあたりで、アメリカの黒人男性が殺された件でBlack Lives Matterがヒートしました。私は黒人へ対して何も思っていないのでここでの言及は避けます。断っておきますが、「黒人だから何も思っていない」のではなく、「全人類に対して何も思っていない」が正しいです。冤罪や痛ましい事件なんて世界中で起きています。今に始まったことではありません。置換冤罪で社会的に死亡する日本人男性もいますし、年端もいかないうちから親子ほど年の離れたおっさんに嫁がされるアフリカの子供もいます。いじめや家庭内暴力に悩む白人もいます。私にはどれかを特別視して取り上げることも、全てを取り上げることもできないので、当該の黒人男性の直接の事件について語ることはできません。

 

 ただ、それに付随するいきすぎた主張や運動についてはどうなのかって思います。数年前に日本でもSIELDsなんてのがありましたね。集団的自衛権の法整備に伴って、戦争をしようとしているだの、徴兵制が復活するだの、ありもしない幻想を叩いて市民に迷惑をかけていた馬鹿共の集まりです。私ね、今のアメリカもとい西欧圏のBLM運動の大半には似たものを感じているんです。

 例えば、ちょっと前に「平和的デモをしていたデモ隊が銃で威嚇された」ってロイターだかCNNだかが報道していたじゃないですが。あれ、蓋を開けてみれば、平和的デモ隊(笑)が、弁護士の私有地に無断どころかゲートを破壊して侵入して、自分の家を守ろうとした住人が銃を出して威嚇したってことなんですよね。ちょっと探してみてください。ひどいものですよ。

 敷地がバカでかくて、柵のない牧場や広場みたいになっているなら、”誤って”デモ行進のルートへ入れてしまった、なんてこともあるかもしれません。ですが、実態は家の敷地は塀で囲われていましたし、ゲートは金属製で閉じられていました。デモ隊はそのゲートを破壊して、明らかに私有地だと分かる場所へ侵入していったんです。これだけのことをやっておきながら、何が平和的、ですか。もちろん、そんな凶行に走るのは一部の馬鹿だったことは分かりますが、同じタグを掲げて運動している以上、悪目立ちすれば全て同じに見られるんですよ。

 

 関連した運動の中で、私が特にやりすぎだと思うのは「奴隷」という概念をそもそも破壊しようとしている流れです。今BLM運動に付随して、奴隷商で財を得た偉人の像が破壊されているのを知っていますか。私腹を肥やして悪逆の限りを尽くした、ってわけではなく、「奴隷商を財源にその土地の発展に寄与した」人物の像が、です。現代の倫理では奴隷商なんて人身売買と変わらず、日本の憲法で言えば基本的人権を無視しているものとして許されざる行為です。ですが、その当時は(私も当時に生きていたわけではないので何とも言い切れないですが)、ある程度当たり前のことだったんじゃないでしょうか。日本が100年前200年前は、小学生くらいの子供も働いていて教育なんてほとんど受けなかったのと同じように、その当時の奴隷商は絶対的な悪ではなかったはずです。

 にも拘わらず、短絡な馬鹿は「奴隷!悪イ!許サレナイ!」と、関係していた偉人の像を打ち倒しています。旧ソ連圏のように、その人を権威付けるためのものならまだしも、敬意を表するために建てられた像を、しかも公共財を破壊するなんて言語道断ですよ。

 

 しかも、元奴隷商の像だけでなく、奴隷という言葉そのものも禁止されつつありますよね。先日リツイートしましたが、IT用語の「Slave(奴隷)」が撤廃しようとしているらしいです。IT用語でのSlaveなんて「強制労働させるために人権無視で徴用した黒人」なんて意味はありません。「コマンドに従うもの」「親プログラムに追従するもの」程度のニュアンスですよ。

 それだけじゃありません。アマゾンプライムで日本のラノベ原作アニメが配信中止にされたようですね。理由は諸説ありますが、共通するのは「奴隷が出てくる」かららしいです。呆れて言葉もありません。現在行っている奴隷商を取り締まる、それは全く問題ありません。でも、奴隷に関連するものを取り締まる、意味が分かりません。奴隷の概念を規制すれば過去のことが消えてなくなるのでしょうか。奴隷の言葉を封じれば誰もが幸せになるのでしょうか。

 

 SF用語なのかどうかは分かりませんが、Slave Unitって単語があります。私好きなんですよ、かっこよくて。いろんな意味がありますけど、私が好きなのは「神戸の私が操作する、東京で動く私型アンドロイド」のアンドロイドの方を指す使い方です。端的に言えばアバターやゲーム内キャラクターのように、「意思がなくて操作されるもの」って感じでしょうか。ただSlave自体を封じられると、こういう使い方もできなくなるんですよね。

 

 また、同じように「White=いいもの/Black=わるいもの」としてのWhite, Blackも規制されているみたいです。ホワイトリストブラックリストがダメらしいです。最早意味が分からないですよね。そもそも良し悪しを形容する際の白黒は白人黒人由来なんでしょうか。違いますよね。美肌は「肌が白い=綺麗な肌」であって、「肌が黒い=汚い肌」なんでしょうか。黒人男性が殺された件から、種々の運動はどれも飛躍しすぎではないでしょうか。

 かつて日本にもあったような「めくら」や「えたひにん」のように、侮蔑目的の語ならまだしも、ブラックリストが「黒人入店禁止の札が黒色で、そこに由来する」みたいなものならまだしも、「悪い意味で黒が使われているから」なんてのは筋が通りませんよ。

 

 表現の自由、なんて大それたことを言うつもりはありませんが、既に市民権を得て普通に使われている、それも差別意識なく使われている言葉を改めて規制うるなんて、過剰反応の暴挙以外何ものでもないですよ。そんなことをしていては、無駄な規制反対派が反発から別の暴挙へ移りかねません。

 ドイツの作家、ハイネの言葉にこんなものがあります。

 Dort wo man Bücher verbrennt, verbrennt man auch am Ende Menschen.

 焚書を批判したもので、「本を焼く者はいずれ人を焼く」という意味です。これ、まさしく今の状況を指していると思うんです。今、世界的に人権意識が高まっている風潮がありますね。それはとてもいいことです。ただ、「新しい意識が生まれているにも関わらず、それに同調しないことへの批判」が正当化されすぎてやいませんかね。

 例えば、ディズニーの『リトルマーメイド』の実写化アリエル役で黒人女性が起用されたことも物議を醸しました。これには反対意見も多くありますし、実際私も反対です。「黒人だから」ではなく、「元々のアリエルが白人赤髪だから」です。新しい作品に黒人役者を起用することにはなんら問題はありません。でも、実写化という、「元があった上でのリメイク」にもかかわらず、ポリコレを意識しすぎてキャスティングを考えるのは如何なものでしょうか。私と同じ考えの人は結構な数いるようです。『リトルマーメイド』は人気作ですものね。人魚なので私も好きです。ですが、本件の批判(ほとんどが「雰囲気を壊さないで」「原作をリスペクトして」といったものです)への批判は「人種差別はナンセンス」「新しい時代を受け入れろ」というものでした。論点がずれているじゃあないですか。

 今後、多分こういったことは頻発しますよ。殊、ハリウッドもといアメリカの作品はこの流れが強くなるでしょう。ナードな少年や快活な女性、クラスの中心の黒人や、周りに馴染めない白人、ゲイやレズも言わずもがな、こんな「いろんな人へ配慮しています」と目に見えるアピールがどんどん出てきます。何度も言いますが、私は別に現実に存在する彼らを否定するわけではありません。紋切型でどの作品にも同じく様式美のように出るその風潮が嫌いなんです。

 

 私が小説を書くとき、そこにおける「必然性」を重視しています。登場人物が男性であること、女性であること、白人であること、黒人であること、アジア人であること、同性愛者であること、子煩悩や人嫌いであること、その全てに必然性を求めます。このスタンスからすれば、最近のポリコレ至上主義は違和感の塊なんです。

 作品に必要なら、奴隷の言葉を使います。めくらやつんぼを使います。逆に不必要なら白人黒人問わず削除します。作品って、そういった取捨選択の上に成り立っていて、それがたまたま視聴者や聴衆、読者や観客に刺さるんじゃないでしょうか。200年前を描写するのに今の倫理を反映してどうしますか。300年後を描くのに現時点の道徳を論じてどうしますか。作品ってそういうものじゃないでしょう。毒にも薬にもなって、時としてよからぬことも表現されます。でもそれを実行/実現しないようにするのが教育じゃないですか。

 「差別はいけません」と教育できないからって、創作物から差別を取っ払うのは焼け石に水です。臭いものに蓋をしたところで、その場しのぎにしかなりません。風潮を鑑みる必要はあるかもしれません。ですが、全面的にそれに従って自分の表現ができないなら本末転倒でしょう。今後、先述の無駄に人権意識高い系が増えることでしょう。指摘が正しいと思ったときには改める必要がありますが、筋が通らない場合には突っぱねないといけません。少なくとも私は、周りに自分の作風を委ねるほど優しくも卑屈でもありません。

 私はいろんな作品に触れたいんです。配慮に配慮を重ねて、外見から中身が想像できるものはもうたくさんです。だから、せめて私くらいは逆賊と非難されても表現したいことを創っていきます。

 

ゲヘナより哀を込めて。

ホール・イン・ワンダーランド

 ご無沙汰しています。

 長らく更新できませんでした。

 

 コロナが騒がれる昨今、どうお過ごしでしょうか。外出自粛が叫ばれて、満足に外で遊べないのが続いていますね。作家志望の方々はこの隙にガンガンインプットしてガンガン書いているんでしょうか。私も最近ようやっと筆が乗るようになってきました。全盛期には程遠いですが、少なくとも私史上最も面白い作品を進められています。内容は、デビューしてから手に取ってください。

 

 さてさて、ツイートでも書きましたが、昨日、デビューしたばかりの藍沢さんと飲んできました。藍沢さん、改めておめでとうございます。デビュー前から度々、半年に一回くらいでしょうか、一緒に食事をしていました。知っている方もいるかと思いますが、昨年のベトナム旅行は一緒に行ってきました。

 藍沢さんはミステリー作家で、私はSF作家志望で、エンタメってところは同じですがお互い書く分野、調べる対象はまるで違います。(プロの作家さんと自身を比べるのは烏滸がましいんですが、藍沢さんは並列で扱ってくれたように感じるので、そのように書きます)私はSFに必要なものを、藍沢さんはミステリーに必要なものを各々研究していますが、お互いの分野については結構知らないことが多いです。私が技法的にミステリーについて知っていることと言えば、ノックスの十戒がある、くらいで、藍沢さんにしてもロボット三原則は知っているんでしょうか。そこまで話したことはないです。

 ですからお互いがお互いの分野について話すときは「SFは難しい」「ミステリーは難しい」みたいはところに落ち着きがちです。昨日も話していて、そんな感じの話題になりました。藍沢さんの著作『犬の張り子をもつ怪物』にアリア、という名前の少女が出てきます。彼女の名前の由来をちらっと聞きましたが、藍沢さんの意図したものを満足には発揮できていない、と言っていました。逆にSFのいいところとして、突飛なものでも論理さえしっかりしていれば受け入れられるとも。ですので、今回はSFについて私が思っていることでも書いていこうかな、と思います。

 

 SFに限らずですが、文学作品のジャンルって現在結構ごちゃごちゃじゃないですか。ジャンルミックスが当たり前になって、SFロマンス、SFミステリー、ホラーミステリー、青春ミステリーみたいなものが普通ですよね。純SFもとい、古典SFでさえそういった片鱗がありますし。

 ただ、そういった中でSFをSFとして成立させている要素としてよく言われるのは「センス・オブ・ワンダー」の有無です。実際著名な作家や評論家がこの「センス・オブ・ワンダー」についていろいろ語っていますが、明確な基準や定義は定められていません。言葉面からも分かるように、かなり解釈の余地があるものなので、一人一人言うことが異なるんです。

 Wikipediaから引用すると「SF小説等を鑑賞した際に生じる、ある種の不思議な感覚のこと。また、それを他者へと説明する為の語である」となります。この時点でガバガバじゃないですか。「ある種」「不思議」「感覚」どれをとっても極めて主観的な意見ですよね。だから100人いれば100通りの説明があるんです。

 

 なら私にとってのセンス・オブ・ワンダーは何か、と聞かれれば、かなり平易な言葉を用いると「かっこよさ」ですね。それ以外で言えば「カリスマ」でしょうか。SFの突飛なアイディアも未知のガジェットも、キザな登場人物もあり得ない世界観も、かっこよければ、カリスマ性があれば全部OKなんです。

 もちろん、オールオッケーってわけではないです。カッコよさを演出するためには、それ相応の前知識や状況が必要です。ものすごく強い武器ガジェットがあったとして、「なんでそれが強いのか」「なんでそれが存在するのか」「なんでそれが生まれたのか」をきちんと説明や描写せず、「なんで強いかっていうと、僕が考えたからです!」だけではカッコよくもなんともないですよね。この前知識や状況の説明や描写を、きっとリアリティと言うんだと思います。リアリティを持った上で如何にカッコよくできるか、それができるのがSFだと思っています。

 度々紹介している『ニューロマンサー』ってSFの巨塔があります。主人公はサイバーカウボーイと呼ばれる、電脳世界へダイブできるクラッカーです。かつての天才ハッカーの弟子です。もうかっこいいですよね。相棒は全身をサイボーグ化した女用心棒です。目はミラーグラスになっていて、指先からはカミソリの爪が飛び出して、得物は細かい針を発射するダートガンです。はいかっこいい。もう設定だけでかっこいい。それが、暗黒メガコーポへ電脳スペースと物理、両方で潜入してあるものを奪おうとするんです。しかもその暗黒メガコーポは、宇宙コロニーの中の、「内側に向かって増殖し続ける」エリアにあるんです。設定も任務もかっこよすぎますよね。『ニューロマンサー』はこのかっこよすぎる設定に、過不足ない説明と描写を与えて、しかもそれを高いレベルで融和させているんです。だから作品としてかっこよくて、SFなんです。

 

 細かい「かっこいい」が付くのは作中のなんでもいいんです。登場人物でも、世界観でも、ガジェットでも、生き物でも。ただ、いくつか出てくる「かっこいい」のバランスが一つでも崩れると、その途端チープさが際立ってきます。「武器が強いんじゃなくて、敵が弱すぎるんじゃないの?」「主人公が賢いんじゃなくて、周りがアホすぎるんじゃないの?」と、読者は素に還ってしまいます。こうなっては最早かっこいい云々どころではないですよね。だから、SF作品では一つのかっこいいが突出しすぎることのないように、前知識や状況がかっこいいをより際立てるように、全編を通してかっこよく描かれてるんじゃないかな、って考えています。

 もちろん、このSFのかっこよさは私の個人的な認識です。なので、人によってはかっこよさではなく、派手さであったり、ゾワゾワ感であったり、淫靡さであったり、ごちゃごちゃ感であったり、感性によって描写する語は異なるでしょう。あくまで「かっこよさ」というかなり漠然とした言葉で説明しましたが、きっとこの「かっこよさ」が「センス・オブ・ワンダー」なんでしょうね。

 以前、恩師だったか画家さんだったかと話したときに「なんだかよく分からんけど、すげえ!」って感覚、と話した覚えがあります。きっとそれがセンス・オブ・ワンダーで、今私が感じているのが「かっこよさ」や「カリスマ」ってことなんでしょう。昔よりは少しだけ卑近な例で説明できたかな、と思います。

 

 私の周りでも「SFって難しそう」「SFってなんだかよく分からない」って言う人はままいます。でもね、私はそれでいいと思うんです。「難しいからよく分からないけど、なんかすごい」「よく分からないけどかっこいいっぽいから好き」結局、ものの好き嫌いってそんな極めてあやふやはものが源泉になるじゃないですか。

 SF好きがSF作品を全部理解しているわけなんてないんです。仮にそうだとしたら、SF読者は高等数学や量子力学、分子物理学、犯罪心理学や脳神経学、天体物理学や電子工学、果てには文化人類学や哲学、宗教学まで専門家ばりにできていないとダメなわけで、そんなホーキング博士もかくやといった人が一体地球上に何人いますか。だから別に、書かれたこと全部を理解できる必要なんてないんです。「よく分からんけどなんか好き」そんなふんわりしたものでいいんです。そういう懐の深さも、私がSFを好きな所以の一つです。

 

 最近、結構SF界隈盛り上がっていますよ。昨年の『アステリズムに花束を』『なめらかな世界と、その敵』から、コロナ騒ぎから『天冥の標2巻』『復活の日』が注目され、今は『三体』シリーズが累計30万部ですって。常々、「売れるからおもしろいわけではない」とは思っていますが、この勢いのある機会に皆さんも手に取ってみては如何でしょうか。きっとまだ見ぬワンダーが広がっているはずですよ。

 

ゲヘナより愛を込めて。

ロング・グッド・バイ

 お久しぶりです。TLの投稿でも触れましたが、この週末、と言いますか先週末に父方の伯父の葬儀がありました。癌でした。詳しくは聞いていませんが、顔の鼻水腺?のあたりに癌ができて、発見されたときにはステージ4で、手術で切除しても肝臓と腰い転移して手の施しようがなかったようです。

 大本の癌が発見されたのが2019年夏だったみたいです。私の父とゴルフをしていて、風邪でも鼻炎でもないのに鼻水が出ておかしいと思って検査しに行ったら、、、という感じのようです。63歳でした。平均寿命から考えても、亡くなるには早かったなと思います。初孫もそろそろ中学生、といった頃でした。

 

 私個人としては、父方の伯父と然したる思い出があるわけではありません。伯父、もとい従兄弟一家ではありますが、一緒に旅行したり何処かへ出かけたりと行ったこともなく、年明けの挨拶に行くくらいか、祖母の家に行ったときにいれば、というくらいです。その祖母も私が大学一年の時に亡くなったので、交流は多くはなかったです。でも、言葉も話せない赤子の頃の私を知っている人がまた一人亡くなってしまったな、それが率直な感想です。やはり私は単なる泥人形ですから、横で従兄弟が号泣していても私は何ともなかったです。いつも通り乾いた目で床を眺めているたけでした。

 

 少しだけ話はそれますが、3月って日本では決算期にあたりますよね。売り上げやら請求書やらを取りまとめて、その年の数字を固めるじゃないですか。営業やコンサルの人は大忙しの月だと思います。

 私もやっぱりそれなりにそこそこ大きい会社を担当していますから、結構な量を処理しているんです。うちの会社、社員のクラスを1から7のランクに分けているんです。1が取締役レベル、7が新入社員レベルです。私今6なんです。新卒入社から4年間がどんな功績をあげても、どんな顧客を相手しても5に上がることはありません。まあ仕方ないですね。

 私が今担当している顧客、昨年までランク2の人が担当していたところなんです。ランク2の大先輩が方々と連携して、部長や役員を連れて客先とやり取りをして、で何とか回して年間云億って取引していたところなんです。

 その人が昨年9月に人事異動になって、手が空いているのが私しかいなくて、私に担当が下りてきました。ランク2にもなると年収1000万を超えるはずです。それが新卒4年目の私が担当するんです。1年目2年目とろくに引き継ぎもされていない顧客を担当して、やっとちゃんとしたメンターが付いて、かと思えばいきなり大きすぎる顧客を担当させられて、となっています。

 

 そんな状態ですから、3月の退勤時間は平均して21時を超えています。朝10時頃まで(たまに11時くらい)に出勤して、21時(遅いときには23時半くらいまで)なんやらかんやらやってなんとか回そうとは思っています。

 今回の葬儀に伴って、実家に帰ったんです。急でしたから通夜と告別式に出席できるだけの日程で帰りました。たった二日です。実家に帰っても、真夜中に仕事していました。親が寝た後に家のwifiVPNを使って社内のファイルサーバにアクセスして見積もりの作成やら請求書の発行処理やらやっていました。

 3月とは言え、身内の葬儀があったとしても休むことなんてできないんですよね。弊社や取引先にとっては、私の身内が何人死のうが関係なくて、決算の数字を固めることの方が遥かに大切なんでしょう。別に特別対応してくれだとかそんなんじゃないんです。多分、企業という体制を組んでいる以上、それが正しい形なんでしょう。ともすれば、それまでに余裕を作れなかった私が使えないくそったれなだけでしょう。でも、なんて言うんでしょう。実際こういう状況を目の当たりにすると、仮に私の両親や兄弟、それこそ一つ屋根の下の家族が亡くなっても状況は変わらないんだろうな、って思います。

 正直なところ、どうしていいか分からないです。きっと、社会人として身内の死よりも自社や取引先に不利益を出さないことの方が遥かに大切なんでしょう。日々の仕事を、どんな事情があるにせよ止めずに進めることが必要なのでしょう。来月から社会人4年目になるにあたって、多少は使える駒になっているかな、と思っていましたが甘かったようです。もっと生活の全て、身内も切り捨てて人生の全てをゴミ箱に捨てて自社へ奉仕しないといけないんでしょう。きっとそれが正しい形なんです。

 

 

 葬儀に行くと、やっぱりしばらく会っていない親戚にたくさん会いました。昔の私を知っている人達です。そんな人達からすれば、26歳の私なんてまだまだ子供みたいなものです。「お久し振りです」なんて声かけると「わざわざありがとうね」「今神戸で暮らしてるんだって?すごいね」と口々に言ってくれました。足があるうちには身内の冠婚葬祭に出席するなんて当たり前じゃないですか。にもかかわらず、そう優しく言ってくれるんです。自分達の方が大変なはずなのに、一人神戸でのうのうと暮らしていた私を慮ってくれたんです。

 そんなものに触れたあとに、普段の生活に戻らないといけないんです。

 どれだけの仕事を回そうとも、どれだけの案件を受注しようとも、「ありがとう」も「すごい」もない生活に戻らないといけないんです。「仕事なんだからきちんとやって当たり前」「営業なんだから数字を上げて当たり前」そんな生活です。できて当たり前、できなければ徹底糾弾。働けなければ生きる価値はない。

 企業に飼われる家畜として自覚と覚悟が足りなかったです。やりたいことのすべてを諦めて、私の人生は私のためではなく、企業と社会のためにあるってことを忘れていました。生きる泥人形ですから、酷使していただけるだけ幸せってものじゃないですか。

 いやしくも、周りの人並みに趣味を持ったり、オンとオフをはっきりさせたり、何かを楽しんだりできると思っていました。でもダメなんですよね。だって社会人だから。与えられた仕事に感謝して、働ける喜びを噛みしめながら日々を過ごしていかないといけなかったんですよね。生まれて20年ちょっと楽しんだ分、残りの60年は何もかもを捨てないといけなかったんですよね。どうしていままで気付けなかったんでしょう。

 

 だから、しばらくツイッターからもブログからも離れます。

 ごめんなさい。

 

 皆さんの日々に幸多からんことを願っています。

 

ゲヘナより愛を込めて。

出場通知を抱きしめて、あいつは海になりました

 今日知りましたけど、日本人が夢を諦める平均年齢って24歳なんですってね。

 24歳、確かに転換点の歳だと思います。大学をストレートに卒業して就職していれば二年目、大学院なら修士課程でしょうか。高卒で働いていると大体五年目ですね。それくらいの時期に人は、特に日本人は夢を諦めるそうです。理由は「自分の限界を感じたから」。悲しいことですね。きっと夢というほどですから、生産的なことなんでしょう。物作りや絵描き、歌やダンス、そういったものを発信する人になりたくて努力して、それでも24歳になれば「自分に才能はなかった」と諦めてしまうんです。

 

 今の日本、政治の話ではなくポップカルチャーの話として、新規のものが育ちにくい環境だなって常々感じています。日本人の保守思想とでも言うんでしょうか。「前例がないから」「今までこういうのは流行っていないから」と新進気鋭の作家が切られたという話は底が尽きません。今新人が世に出られる環境がどれだけ整備されているでしょう。

 小説は年間に数十の新人賞がありますが、ジャンルを絞ってしまえば年間五本がいいところでしょう。エンタメ、ロマンス、純文が五本くらいずつで、ホラー、SF、ファンタジーが二本くらいかな、と思います。それでいて出版社は「なろう」の十把一絡げな異世界転生やら無根拠なハーレムやらを拾い上げますから真剣にやっている側としては勘弁してくれってなりますよね。もちろんなろうに投稿する人にはその人なりの、出版社には出版社なりの努力や論理がありますから、それを批判するのはお角違いですね。

 

 閑話休題、新人発掘の場に目を向けましょうか。コニータルボットって歌手をご存じですか? 弱冠6歳で歌手デビューしたイギリスの少女です。その彼女がデビューするきっかけとなったのがテレビ番組『Britain’s got talent』でした。簡単に言えば、歌手やパフォーマーの卵を競わせるテレビ番組です。後ろ盾もなにもなくとも、純粋に自分のスキルで勝負できる世界です。コニーは出場した際、準優勝に終わりましたが、その時優勝したのは現在ではオペラ歌手として活動するポールポッツでした。歳で補正しようというわけではありませんが、成人男性と6歳の幼女が優勝をかけて真っ向から勝負できる場なんです。勿論、コニーやポールのように優勝や準優勝といった輝かしい功績を残せずとも、編集者やプロデューサーの目に留まればデビューへの道も拓けていきます。

 何が言いたいかというと、同じことを日本でもやればいいのにってことなんですよね。現在の日本は特にテレビ界隈は酷いもんだと感じています。バラエティは芸能人の仲良しサークル、下世話で品がないかお涙頂戴のヒューマンドラマ、自国上げをしたいだけの何番煎じかも分からない量産番組、そんなものばかりが流れているイメージです。10年前、15年前はまだ違ったように思うんですけどね。

 私は基本的にテレビを見ませんが、帰省すると点いているのでたまに見ます。この前、女子高生のダンスサークル?で大会の様子が放送されていました。パフォーマーやダンサーの事務所(があるのかはわかりませんが)へ向けたプロモーションではなく、蓋を開けてみれば、準優勝のチームにフォーカスして「頑張ったけど負けちゃいました」みたいな論調でした。彼女らの努力を笑うわけではありません。ですが、他のチームもみんな一様に最善の限りを尽くしてあの場に立っていたはずです。それを、お茶の間の暇つぶしとして放送するのはあまりに侮辱していませんか?

 未成年が頑張って報われなくて泣けば素晴らしいんですか? バッカじゃねーの、ってなりますわ。しかもそれを放送して喜ぶなんで腐っていますわ。どうせ放送して番組とするなら、特に表現者を取り上げるなら、登竜門になるくらいのことをしろって思いますね。

 

 この前帰省したときに高校の友達と飲みました(二人とも酒は弱いので、ご飯だけになりましたが)。高校時代から仲良くしてもらっていまして、私が出す話題でも嫌な顔せず付き合ってくれる優しい友人です。私とは畑が違いますが、彼、映画監督を目指しているんです。私もそれなりに映画は観る方ですが、やはりそこを目指す彼は絶対的に比較にならないほど鑑賞していました。観る作品から学んで、考察して、技法を見て、そうしたことを欠かさない人です。

 私はまだ彼の作品を観たことがありませんが、きっと面白い作品を作ってくれると思います。

 小説と映画で大分作品に対するアプローチや考え方が違いますよね。普段映画を見ていても、「小説ならこうできるのに」と思うことも、「小説じゃこれはできないな」と思うこともあります。特に、スピード感を出すもの、例えば派手なアクションなんかは小説よりも映画向きのシーンでしょう。対して、心内表現やじわりと伝わる情景描写は映画よりも小説のほうが得手とするものではないでしょうか。もちろん総体として、の話ですので例外はありますよ。

 彼と話していて出てきたのが、上記で話したようなことでした。殊、日本に関しては映画にしろ小説にしろ、創作活動をするにはかなり厳しい環境ばかりが揃っているというものでした。二人とも外国で暮らしたことはないので海外のそうした環境に明るいわけではありません。ネットやその界隈で言われるようなことしか知らないにすぎませんが、体感として日本でそうした活動をするのは、少なくとも大々的に発信して動くのは難しいな、と感じています。

 例えば小説。私が小説を書き始めたのはネット小説を入れれば中学生の頃でした。今息をしているかわかりませんが、当時モバゲーと連携したエブリスタの方で細々とやっていました。付き合いの長い友人たちは私がそんなことをしていると知っていたんですが、中学生の一過性熱狂で、受験シーズンを迎えるあたりにはしなくなっていました。本格的に?小説を書こうと思ったのが大学三年でした。まだプロットの作り方の片鱗さえも知らない頃でした(今も分かっているか微妙なところですが)。その時に、別の友人が私の部屋に来たんです。中学の頃にネット小説をやっていることを知っている一人です。

「まだ小説なんて書いてるの?w」

 言葉面だけ見るとかなりトゲのあるものですけど、実際のところは仲間内の軽いノリな口調でした。でもね、やっぱりズキンと来たんですよ。「”まだ”書いてるの? 大学生にもなって?」「小説”なんか”」、多分当人は悪気はなかったでしょうし、多分一般人(?)として正しい反応なんだと思います。

 基本的に功利主義社会、全体主義社会な日本では創作活動のように周りと違うことをするのは、それこそ目覚ましい結果を起こさない限り白い目で見られます。偏見やトラウマでもなく、事実としてそうなんですよ。きっと私や、他の作家志望の方にもこういうものは根付いてしまっているんです。たまたま”創作活動”についてはそう思わないだけで、例えば芸術としてのSMやボディサスペンションのように特異性の強いものについては顕著だと思います。私自身、ボディサスペンションは生で見てみたいですけど、そう思わない人もいるでしょう。自分のポリシーで髪を派手にしている人や、自己表現としてピアスやタトゥーをしている人にも、「いい年して何やってるの」「気味悪いことしないで」、そんな眼差しがないと言い切れますか?

 侮蔑とまでは言い切りませんが、自分の領域にないもの、未知のものに対する無条件の排斥感情は、きっと誰の内側にでも巣食っているんです。創作、なんて高尚なように聞こえますが、それについても同じことが言えます。「これが売れて金になる」、そんな大義名分があればまだ違うんでしょうが、そうなれるのなんて一握りです。小説にしろ映画にしろ、趣味ではなく一つ上の段階を目指す人たちにとって、「金にもならないのに」「本当に才能がある人しか無理」「いつまで夢見てるの」、些細な一言は、時に人生の方向性を歪めるには十分すぎるほどの威力を持っているんです。

 

 きっと、日本人が否応なくそうした環境や言葉に晒されるのが24歳前くらいなんでしょうね。実際には、自分で「自分には才能がない」と断じてしまうのではなくて、周りからのそうした圧力で毒されて、自分の意見のように感じてしまうまでの期限なのでしょう。

 確かに脳科学的に、人の脳が柔軟性を新たに得にくくなって、つまり急進的な成長をしにくくなっていくのは25歳くらいとは言います。歴史に名前を残すような天才はもっと若い頃から活躍していまる現実はあります。でも、それと同じくらい壮年になってからデビューしたり、返り咲いたり、大きく成長したりする人もいるじゃあないですか。『さよならドビュッシー』で有名な中山七里さんだって47歳でデビューでした。『ヨハネスブルクの天使たち』で有名な宮内悠介さんだって33歳でデビューしました。

先人たちが、私たちに影響を与えて、カリスマの鑑のようになっている先人たちがそこまでやっているのに、私たちが24歳で諦めてしまうなんて勿体ないじゃないですか。

 

 今の24歳って、多分ゆとり教育まっさかりか、終わってすぐくらいの世代でしょう。「これだから最近の若いのは」「これだからゆとりは」なんて揶揄して後ろ指をさす昭和脳の馬鹿共にも、「まだそんなことやってるの?」「いい加減現実見たら?」と達観したように語る大衆に迎合することを選んで、流されることに楽を覚えた怠け者の戯言に耳を貸す必要がどこにありますか。世間の波に杭打って抗っていきましょう。指してくる後ろ指をへし折ってやりましょう。建設的でない意見を嫉妬だと嗤ってやりましょう。

 私のブログを読んでくれている人達はきっと、何かを創らないと自分の中身が溢れてしまう人ばかりでしょう。外界へ、まだ見ぬ自分のシンパへ、誰かになるかもしれない第三者へ、自分の作品を発信していかないと乾いていってしまう人でしょう。

 私は別に然して立派なことを言えるわけでもありませんし、影響力があるわけでもありません。でも、あなたが世間の、「創作なんて暇人のやること」と言う流れに真っ向からぶつかっていくなら、私も別の場所で同じようにぶつかりましょう。

 別に近い人に認められなくたっていいじゃないですか。別に世間に白い目を向けられたったいいじゃないですか。作らないと生きていけないから作っているんです。作りたいから作っているんです。それで十分じゃないですか。

 

文字にしろ映像にしろ、彫刻にしろ音にしろ、私はあなたの作った物語に触れるのを楽しみにしています。

 

全ての創作者へ

ゲヘナより愛を込めて。

明けましておめでとうございます。

 皆さん、明けましておめでとうございます。

 2020年が始まりましたね。レプリカントも脱走しないし、鉄男も現れないし、二年後に月の裏側で宇宙飛行士の死体が発見されることを祈りましょう。

 

 さてさて、皆さんは年末年始を如何お過ごしでしょうか。きっと勤勉な皆さんのことですから、普段はない連休に一気に原稿を進めているのではないでしょうか。対する私は、全然進められておりません。お恥ずかしい限りですが、どうにも再起動に時間がかかっております。

 

 年末、やはり仕事は忙しかったです。九月に担当顧客が変更となり、今まで勤続何十年という先輩の顧客を引き継ぎ、必死こいて働いていました。正直、今貰っている給料では割に合っていないと思います。まあ仕事の話はなしにしましょう。

 先月、原稿もほとんど進められませんでした。土日は布団の中でうだうだして、多分月間で5000字いったか微妙です。3月に締め切りなのにね。。。

 正直なところ、一週間前くらいま3月のハヤカワを諦めムードに入っていました。原稿全然進んでいないし、平日は進める気力もないしで絶望視していたので。ただ、昨日今日あたりからまたエネルギーじゃないですけど、モチベーションは上がってきました。やっぱり私、ハヤカワでデビューしたいです!

 

 もう今年しかないと思うんです。私が26歳で死ぬ、と宣言していることもありますが、きっとこれ以上会社員生活を続けていると、自分から生み出さないことに慣れすぎる気がするんです。何処の企業も同じだと思いますが、自分一人で今まで存在しなかったものを作って世に発表発売することってほとんどないじゃないですか。個人事業主でもない限り、限りなくゼロと言っても過言ではないと思います。誰かが作ったものを再販したり、誰かに作ったものを丸投げして売ってもらったり、よく言えば適材適所、悪く言えば他力本願で経済活動をしていないでしょうか。いえ、別に批判するつもりなんて欠片もありません。ただ実態はそうなっていますよね、って確認です。

 これね、私も身を置いていますがとても楽なんです。企業の傘に守られているってこともありますが、言うなれば世情の流れに乗るってことでしょうか。爆発的な変化をもたらさず、少し上を目指して、でも基盤は安定させて、そんなものが社会の流れとして正しいかな、と思います。

 それに対して、小説を書くという行為はどうでしょうか。勿論、前情報としての知識や情報、設定や設計図となるプロットの作り方、そういったものは周りにあるものを流用できます。しかし、情報の取捨選択やプロットの一文にしても自分で生み出さないといけませんよね。更にそれを基に物語を起こすっていうのはとんでもない労力を使います。

 以前、イラストレーターだったか漫画家だったかの方がツイートしていたもので印象に残っているものがあります。一字一句覚えているわけではありませんがこういった内容のものでした。

「漫画家やイラストレーターはトーン張りやべた塗は作業イプをしながら進められる、つまり完成させるまでに機械的作業が発生するけど、文章書きは最初から最後まで頭を捻らなきゃいけない」

 確かにそうですね。どっちが大変でどっちが偉いとかそんなことではありません。ですが、この方が仰る通り、文章を書くときは常に頭を回転させながら、それを指先から起こしていくことが必要になります。体験したことがあれば分かりますが、とてつもなく疲れるし、とてつもなくエネルギーを要します。先の話を重ねて、これが難しくなると思うんです。

 

 別に会社勤めが楽というわけではありません。そこにはそこ特有の辛さやしんどさがあります。ただ、それに慣れすぎると自分から、つまりゼロから発信することへのエネルギーの注ぎ方を忘れてしまうんです。仮にそれが上手くいったとして、上手くいって作業を始めるところまでいけたとして、その先はどうなるでしょうか。モチベーションをガソリンに発信したその機体を上手く制御できるでしょうか。

 例えるなら、車とバイクの運転でしょうか(バイクに乗り始めてからこの手の例えばかりですね)。車は楽ですよね。運転手に当たる風がないし雨も防げるし、音楽がかかってエアコンも使えます。その分車体が大きいので駐車の際や狭い道では気を使いますし、首を動かした程度では防げない死角があります。対するバイクは風は当たるわ雨は凶器だわ、夏は暑いし冬は寒い。余談ですが、夏は涼しいなんてありえませんよ。股の真下にエンジンがあって風はぬるいしヘルメットがあるんですから。嘘だと思うなら真夏に湯たんぽを抱えてニット帽を目深にかぶってエアコンの室外機の前に座ってください。そんな感じです。でも車にはないメリットもあります。狭い道でもそこまで気は使わないし(危険で違反グレーゾーンなので私はやりませんが)渋滞時にはすり抜けもできます。四季を直に感じられますし小回りも利きます。

 まあ、何が言いたいかというと、車の運転に慣れすぎてバイクをしっかり運転できるのか、ってことです。会社勤めの日々は車の運転のようなものです。企業という後ろ盾やコンプライアンスがある分好き勝手には動けませんが、その分楽ではあります。小説の書くことはバイクのようなものです。自分の裁量で全て進められますが、風や雨、路面状況に左右されまくって車より遥かに疲れます。しかも両者は運転の仕方もアクセルの開け方もブレーキのかけ方も全く違いますから、どちらかに慣れ切ってしまえば、そのどちらかに素早くシフトするのは難しいでしょう。

 

 私、これすごく身に染みて感じているんです。入社前は「絶対に周りには染まらない。自分の道を突き進んで、己が人生は設計通りに進める」と決心していました。でも、いつの間にか過敏な受容体は日々の仕事や疲れで鈍磨していきました。

 年末の忘年会で上司にこう言われました。「前の暇だったときよりも、仕事で忙しい今の方がイキイキしてるよ」と。数年前の私にとっては万死に値するくらいの侮辱だったでしょう。でもね、何が何処でねじれてしまったのか、「それも悪くはないな」と思ってしまったんです。そう思ってしまった私が許せません。そうなるまいと決めていたのに、今の私はそうなるまいと決めた頃の私を裏切ってしまったんです。だから、せめてものけじめなのです。

 今年が無理なら私はもう無理でしょう。過去に目標を掲げ、そこに向かって走った私を、今の私もその意志を次いで走り切れるか、さもなくば過去の私を今の私が「あの時は若かった」「現実が見えていなかった」と手垢の付いた蔑みの言葉と共に殺してのうのうの生きていくか。その境目が今年なんです。

 

 人生の先輩は言うんです。「若いからいくらでも失敗できるしやり直せる」果たしてそうでしょうか。今の感性は今にしかありません。今の情熱は今にしかありません。不確定すぎる未来に託せるほど、確固としたものなんてありません。

 だから今、今に全て投げて生きるか死ぬか、切った張ったをしないといけません。

 

 今年2020年、生い先短い身ですが、皆さんどうぞ宜しくお願いいたします。

 今年が私にとっても、皆さんにとっても実り多き年になるよう祈っております。

 

ゲヘナより愛を込めて。

親の心子知らず、子の環境親知らず

 「世代間憎悪」と私は呼んでいますが(どこかで見たのかもしれません)、以前に比べて自分達を擁護し、他を排する風潮が大きくなってきたな、と感じます。

 

 私は所謂「ゆとり世代」と言われる世代です。1990年代初頭から大体2000年代初頭生まれの世代でしょうか。義務教育でもそれまで土曜授業がありましたね。指導要領が変更される前の教育現場を私は知りませんが、ゆとり教育の方が緩いとはよく言われますね。私達の世代は、別に「ゆとり教育を受けたい!改正しろ!」と声高に要求して勝ち取ったものではありません。上が勝手に決めて、受けざるを得なかったんです。

 

 さて、この教育方針が制定されたのは2002年です。このあたり、結構激動の時代だったな、と私は感じています。何よりも一番大きいのはネットの普及ではないでしょうか。パソコンや携帯電話が庶民の手に届く範囲まで下りてきて、勿論便利ですから急速に普及率を伸ばしていきましたね。私の世代ではまだギリギリ「好きな人の家に電話して、相手のお父さんが出たらどうしよう」のドキドキ感をしっていますが、それよりも下、2000年代後半に生まれた子供達はもうラインやツイッターでそういうことをするんじゃないでしょうか。

 閑話休題、ネット社会やデジタルネイティブといった概念の黎明期であったわけです。小学校高学年ではゲームキューブPS2が、中学に上がる頃にはWiiPS3が世に出ました。ポータブル機でもDSやPSPが出ましたね。私の青春はそれに支えられていた、と言っても過言ではありません。

 ただ、同じ世代の方なら共感いただけるかな、と思うのですが、親はそうしたゲーム機を全てまとめて「ファミコン」「プレステ」と呼んでいなかったでしょうか。ニンテンドー64ゲームキューブも初代プレイステーションPS2も、大体全部いっしょくたに呼んでいなかったでしょうか。

 私達、そうした親の世代をどことなく見下していたことはないでしょうか。「今時ファミコンなんてないよ」「これプレステ。なんで分からないの」と。親にはゲーム機の違いが分からない、と高をくくっていたことはないでしょうか。多分、ここが第一の転換点だったかなと思います。

 

 ゲーム機もさることながら、携帯電話も意味の分からないスピードで進化していきましたね。年々薄く小さくなっていき、2010年に入る頃にはスマートフォンも出現しました。それまでは銀行のATMや施設の端末でしか見ることのなかったタッチパネル方式が手のひらに収まる大きさの機械に実装されて、今ではそれが当たり前になっています。

 私達の世代と親達との世代を隔てる大きな要因はこれだと思っています。ムーアの法則ってご存知ですか? 端的に言うと、コンピュータの性能は年々上がっていくってものです。ゼロからコンピュータAを作って、Aでより性能の高いBを設計して、という流れを何度も繰り返していきますからね。その結果出来たのが今の情報化社会です。私達はその変化の渦中にあって、あまり実感がないかもしれませんが、10年前を見ると今のiPhone11なんて訳分からないくらい高性能になっていますよね。

 さてさて、人類史上、ここまで技術革新が加速度的に行われた時代はありません。産業革命原子力の転用などなど、一応似たものはありましたが、どちらもすぐ頭打ちになりました。それに比べて今の加速情報社会は留まるところを知りません。

 私達の世代はその流れに乗れている世代でしょう。生まれた頃からポータブルゲーム機があって、中学や高校に入る頃には自分の携帯電話を持って、そんな社会が加速していく時流に私達自身の世界も加速していきました。

 

 冒頭の話に戻りましょうか。私は現在の世代間憎悪を、この加速の波に「乗って育ったか」「後から乗る必要に駆られたか」の差だと思っています。上記では体験したポップカルチャーの例ばかり挙げましたが、ビジネス面でもそう変わりはしません。

 IBM(世界一のIT企業と言っても過言ではありませんね)で定年退職を迎えた元社員の方に話を聞く機会がありました。その方は今年65歳、つまり今の私と同じ年齢だったのは今から40年も前です。その頃は個人用のノートPCなんてものはなく、馬鹿でかいブラウン管のデスクトップPCでした。企業が保有する基幹系システムを入れるメインフレームなんかはありましたけど、持ち運びPCがメジャーになったのはそれこそ2000年前後じゃないでしょうか。

 今から40年前の彼は、今のようにパワーポイントで資料作成なんかできなくて、模造紙にプレゼン資料を書き込んでいたようです。天下のIBM社員が、ですよ。2000年に突入するあたりで、所謂今の社会の管理層は、既に企業内でもある程度の管理層になっていたでしょう。するとどうなるか、端的に言ってしまえば主戦力の場、第一線を退いているんです。特に現在の官僚なんかみれば顕著ですよね。自分でPCを打ったことがない、USBメモリすら知らない。スマートフォンを使っているというだけでドヤ顔をする。これが今の日本のサイバーセキュリティ担当大臣です。国はそれでいいと思っているんです。

 この差、唾棄すべき程無知である上層と、私達のような時代の流れに人生を左右される下層、これが世代間憎悪の源泉であると私は考えています。両者の前提が既に異なっているんです。人との無数の繋がりありきであった時代と、最低限の関係でことを進められる時代と。情報が加速化されて、若い人はそれに追いつくのに必死になっています。上の世代の人はそれを過小評価しているのか、自分達の経験を課題評価しているのかは分かりませんが、少なくとも私達のようには考えていないでしょう。

 

 加えて、時代が流れて変わっていくにも関わらず、システム側が旧態依然ってのも問題ですよね。私、IT企業に勤めてますから、現場でバリバリやる若い人と、管理層の上の人の意見の相違って結構見ています。

 「これ入れればリモートワークもデータ管理も楽になりますよ。ちょっとだけ高いですけど」そんな仕組み、インフラ、ソフトは腐るほどあるんです。客側の管理層がどう考えてそれを蹴っているかわかりませんが、大体こう言って断られます。

「今までこれでやって問題はなかったから」

 保守主義蔓延る日本らしい言い方ですよね。石橋を叩いて叩き割ってどれくらいまで行けるか確かめて、同じものを創ろうとするけどコストに腰が引けて直接川を渡るやり方、こんなものが横行してます。勿論評価を出すことは素晴らしいです。これまで評価を出していた手法を守って堅実にいくことも大切です。でも、そんなことをしていても、何も成長も発展もしませんよ。投資、これの大切さが分かっていない上位層が多すぎるんです。株やFxとか仮想通貨とか不動産とか、そんな話ではありません。設備や人やスキル、ソフトウェアやガジェット、道具、そういったものに投資をすることの大切さが分かっていないんです。「これを導入しても良くなるとは限らない。だから入れない」、リスクヘッジの観点では重要です。でも、入れて成功した場合の得もそこで丸っきり切り落とすわけですよね。こういうの、機会損失って言うんじゃなかったでしたっけ。

 

 ネットでもたまに見ますよね。「お客様からいただいた仕事を機械に任せるわけにはいかない」「手書きの方が心がこもる」そんな生産性の欠片もなくて自分の無知と愚鈍さをさらけ出すような意見。多分ね、私思うんですけど、そういう昭和の遺物って愚かなくせに声がでかくて柔軟性が皆無じゃないですか。だから私達みたいな平成生まれには「こう言うのが昭和の人なんだ」「上の世代に何か言っても無駄なんだ」ってなるんですよ。その結果が今の経済市場の停滞なんですよね。

 政治もそうですけど、社会って私達みたいな若い層が考えている方向には絶対進まないじゃないですか。同性愛のパートナーシップ制度だって、何の不利益もないにも関わらず遅々として進まず、ほとんどの自治体で認められていないじゃないですか。

 こういう状況を目の当たりに突き付けられて、自分達で改善することもできずに、大勢のほとんどを占める昭和の古い人間が都合よく作り上げた中を生きることを強要されるんです。この中で世代間憎悪が育たないわけがない、と私は思うんです。

 

 なら選挙に行けって? それは勿論真っ当な意見で、反論の余地なく選挙には行くべきです。現在の日本を変えるためには実力行使でもデモ行進でもなく、選挙で介入するしかありません。ただ、皆さんは所謂若い層、今年30歳になる平成元年までの層と、それよりも上の層と、どれだけの隔たりがあるか知っていますか? 仮に共産主義の資本主義の二大政党しかいない、みたいな状況ならまだなんとかなるかもしれませんが、今はそうじゃないですよね。人口比的にはもう本当にテルモピュライの戦いさながらですよ。300のスパルタ群と200万のペルシア軍、正直なところ負け戦ですよ。票田としても発言力としても。

 今の若い層がもう何もしようとしないのは、それが見えているのではないでしょうか。

 加えて、政治家の汚職や不義理は嫌というほど目にしてきました。特に私前後の人は多感な時期にあの民主党政権を知っていますからね。政治への不信と、期待しても何もしてくれないっていう諦念が大きいのではないでしょうか。これは私の想像の暴走ですかね。でも民主党政権があり、安倍政権があり、国会は幼稚な野次の嵐。法人税は下げられても市民に還元されているとは言い難い。消費税も年金も上がりつつも、決して充実しきっているとは言えない国内福祉。声が大きい層は大概が最早年金世代となっていて、同じ国に住んでいるとは思えないほど環境が異なります。

 上の人は言うんです。「俺達だって昔は苦労した。若い頃は残業100時間も平気だった。仕事があることに感謝して働くべきだ」

 私みたいな若い層は言うんです。「仕事量も情報量も違うから同列に語るな。お前たちが100時間かかっていた仕事は今の世代は10時間でやってる。感謝どころか先も見えない中、自分の生活を成り立たせることで精いっぱいだ」

 

 世代間憎悪、これは時代の波に乗って育った否かに起因すると言いましたね。若い世代が今の波に乗るというのは、莫大な量の情報に晒されて、吸収して生きていくことに他なりません。否応なく変化を強制されます。

 私はここで言う若い層ですから、どうしても昔の人の考え方を身に付けることはできません。どうしても昔を敵視して今を擁護してしまいます。

 完全に私の主観、私の意見として述べるなら、特に今の声のでかい層、TVタックルに出演して我が物顔で喚いている層へ「能力もねえくせに、今の足を引っ張ってんじゃねえよ」としか言えないですね。奴らが若い頃は高度経済成長下で育ち、学生運動なんて暴動で主張を通して、働きに出ればバブル経済でやりたい放題、そんなぬるい環境で過ごしてきた無能共に、私達の苦労の欠片でも想像できるのか、と。

 正直、今の若い層から隠居層への憎悪は八つ当たり的な部分がないとは言い切れないかもしれません。先の見えない不安感、脆弱な生活基盤、増えるだけの経済負担、そういったものが積もりに積もって吐き出す先がなくなって、こんな形で噴出しているだけではないか、とも思います。でも同時に、隠居世代が今の若い層へ無茶振りや強要強制、過去の栄光にすがって横柄な態度を取ったり、黴の生えた価値観で今を判断したり、と理不尽が絶えないのも事実ではなかろうか、とも思います。

 

 多分、労働がこの世、少なくとも日本から消えない限り、この手を軋轢は消えないんだろうなって思います。「働けど働けど暮らしは楽にならず」、そんな感じです。上の層の考え方を変えるのは不可能でしょう。各々が気付いたり気付かされたりで変えられていたなら、ここまでどうしようもない社会にはなっていないはずですし。

 それを愚痴れば「でもお前たちは恵まれてる」「他と比較したらこんな酷いところがある」なんて言われる始末ですもん。これ、この発言の裏には「俺達も同じ条件で苦労してきた」「俺達だって同じ条件で苦労してる」「だから文句を言うな」って心理が隠れてるんですよね。

 もうやめませんか。公務員のボーナスが高いって喚いてる馬鹿と同じじゃないですか。よりよいものを求めて何が悪いんですか。家賃補助2万に文句を言えば「補助なんてないところもある」、年間休日が130ある企業を羨ましがると「うちはみんな少ない休日で頑張ってるんだ」、だからなんですか。奴隷の鎖自慢はもう結構です。アベノミクスだTPPだで日本の経済が回らないんじゃなくて、骨の髄まで染み込んだ奴隷根性と苦労は美徳の精神が妨げているんですよ。

 

 はあ、年末になにしているんだか。

 年明け前にもう一つくらい投稿できたらいいなあ。

 

ゲヘナより哀を込めて。