虚勢の銀貨

東村の日々の記録

「気に入らないもの=悪」は通用しないでしょ

 表紙がアダルティなライトノベルについて、最近ツイッター界隈が荒れていましたね。

 それについて、私としても思うところがありますので、今日はそれについて。

 

 ことの発端は以下に引用しているツイートでした。

『きょう書店で娘が心底嫌そうな顔で「お父さん、これ気持ち悪い…」と指さした光景。自分の属する性別の体が性的に異様に誇張されて描かれ、ひたすら性的消費の道具として扱われる気持ち悪さは想像できるし、それを子供の眼前に公然と並べる抑圧はほとんど暴力だよなと改めて思う。』

 

 前半については私も同意します。異様な巨乳、媚びた表情、ストリッパーまがいの衣装、こうしたタグの少女のイラストばかりが並んでいるライトノベルの棚は、正直私も気持ちが悪いです。私には、あのカバーの文庫をレジに持っていく勇気も、自分の本棚に仕舞う気持ちも全くありません。

 仮に、中身が普通の小説であるなら、編集者や装丁家が暴走しただけと割り切れもしますが、ライトノベルに限って言えばそれも不可能です。

 この場を借りて、全方位に喧嘩を売る覚悟言いますが、私は現行のラノベが嫌いです。商業主義、経済主義に迎合して、同じような内容ばかりで面白みもなにもありません。とりあえず異世界に行って何かしらで無敵になった主人公が、なんやかんやあってめっちゃモテる、この公式ばかりじゃないですか。世界観で魅せるわけでもなく、テーマで差別化を図るでもなく、とりあえず強くてとりあえずモテる。そんな内容ばかりだから「ラノベを読んでるのはキモオタだけ」なんて揶揄されるんですよ。

 また、主人公の高性能さを見せつけるために異世界の住人の知能指数を著しく下げることも意味が分かりません。火が扱えて、加熱料理が普通なのに、肉は片面焼きしか知らない。椅子に座って食事を摂れば疲れない、などなど。貨幣経済があるのに、四則演算が存在しないってなんだよ。

 

 話を戻しましょう。中身が同じで、どれもこれも型にはめた作品でしかないなら、同じようなカバーが乱列されるのも無理はありません。高校生ものが流行れば女子高生の絵が、異世界ものが流行れば奴隷幼女やツンデレの姫の絵などなど。勿論、例外はありますが私の偏見では大体がこの中に収まると思います。

 私の信条として、カバーやタイトルは、小説の中身の一番外側です。しかもただの中身じゃない。物語の核心の外側です。作品が梱包された果物だとして、タイトルやカバーはその果実の皮の部分であるべきだと考えています。それでいて、全てを語るわけではなく想像へのリダンダンシーを残していないといけない。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』『躯体上の翼』『know』このあたりはそれを標榜する素晴らしいタイトルだと思います。

 なのに、ラノベ界隈では「最強戦士」「モテすぎる」「チート」のように手垢の付きまくったものばかりじゃないですか。同じようなタイトルで同じような作品のカバーが同じようなものになって、それがずらりと並ぶ。このことに気持ち悪さを感じない方が不自然だと思います。

 

 

 しかし、先のツイートの「性的道具として消費」や「眼前に並べるのは暴力」というのには、私は懐疑的です。性的道具としての消費=悪だとするなら、一般的に夜の仕事やR18のコンテンツは全てが悪で、この世界から根絶すべきものということになります。少し前のMeToo運動や、AV女優の脅迫出演の件もありますが、性的なこと=全て抑圧下で起きるものではないでしょう。女性の中で、自分の性を武器にしている方々も少なからずいます。今回の趣旨とは外れますので、それについては深くまで言及しませんが、ひとまとめに断罪するのは違うと思います。(なら上で書いたラノベの批判はなんなんだ、となってしまいますが)

 それに、「巨乳に描く=性的道具として見ているから禁止」とすることはとてつもなく危険なことと気付いているでしょうか。これはそのまま性癖の淘汰に繋がりかねないことですよ。まだ「露骨に性的だから」で収まっているうちは実害はないかもしれませんが、例えば巨乳が禁止されて貧乳(この言い方品がなくて嫌いなんですけどね)が持て囃されると、「小児性愛の反動だ」「女性性を無視している」なんて文言で叩く人間は確実に出てきます。

 そうなってしまうと、目に見える絵というコンテンツから飛び火して、作品の中身まで叩かれることになるでしょう。「この作品は人種差別を助長している」「被災者を鑑みていない」「性的道具としてしか見ていない」そんな風に、作品そのものの評価ではなく、一部だけをあげつらって針のむしろになる世界が来ます。果てには『1984』に出てくる思想警察なるものも出現しかねません。

 

 在りえないと思いますか? でも歴史を振り返って焚書や思想の制限がどれだけ起きていたか知らないわけでもないでしょう。それを前時代的と切り捨てるのは簡単ですが、私達の時代で決して起きない確証がどこにあるのでしょうか。

 

 さてさて、この話はちょっと長くなりそうですので、次回にわけます。

 次回は、「表現者たるもの、私個人的にはどうあるべきなのか」について書いていきます。

 

ゲヘナより哀を込めて。