虚勢の銀貨

東村の日々の記録

真綿で首を絞められるような

 最近、露骨に感情のふり幅が薄くなってきたと感じます。私は元来、そこまで表に感情を出すタイプではなく、というよりプラスの感情の表現方法をあまり知らないタチでした。何か嬉しいことがあっても、それを手放しで喜ぶのはなんとなしに恰好悪い、と思っていたんですね。そんなことを考えて生きてきたせいで、団体で何かを成し遂げて、喜ばしい結果が出た際にみんなが喜んでいるのを、一歩引いたところから眺めていました。同調が苦手な人種。一匹狼や孤高の人と言えば聞こえはいいですが、単純に人に歩み寄る努力ができないだけです。

 とは言っても負の感情はすぐ顔に出るタイプでした。部活でしんどいメニューが出れば眉を顰め、苦手な人と接しないといけない場では言葉遣いが刺々しくなって、一線を越えれば後先考えずにものを言う感じです。ただ、やはり泥人形の私にもささくれの先っちょ程度の常識はありましたから、社会人になってからそれはよろしくないってことくらい分かります。なので、嫌なことでも極力フラットに対応するようにしてきました。面倒くさいことも、明らかに負荷の強いことも、とりあえず「分かりました。やってみます」と答えます。

 するとどうなるか。何をしても感情のふり幅が狭くなったんです。普通のふり幅が10~-10くらいなら、今では3~-3くらいが体感です。昔なら、少なくとも3年前の学生時代ならもう少し、自分の中を晒せていた気がします。

 

 でも、周りを見ていると、感情を見て取れる社会人って本当に少ないんですよね。プラスにしろマイナスにしろ、どちらかというと演技がかって見えてしまって、「これはこの人の素じゃないんだろうな」って感じてしまいます。きっといっぱしの大人としてはこれが正解なんでしょう。余計なことでいちいち波風を立てていては社会生活には不便ですから。

 仕事のために生きるべく産み落とされた日本人である限り、忖度して空気を読んで、つつがなく毎日を過ごして、自分の大切な時間と若さと体力を労働のためだけに捧げて、それ以外のことは全て取るに足らないこととして切って捨てるのが正しい形なんでしょう。そんな生活には、あっちに振れてこっちに振れる気持ちなんてものは不要ですからねえ。

 

 実際、この生活を続けて早二年弱、存外悪いものではありません。どいつもこいつも建前ばかりで本音を言いませんから、それとなく愛想笑いで流して、それとなく曖昧な返事をしておけば円滑に進んでいきます。だから精神力が削られたり自分の人生に食い込まれたりするようなことはありません。

 ただね、この生活、良くも悪くもつまらないんです。私元々慰め合うような言葉は持ち合わせていません。その代わりに手に入れたのがお互いを殴り合うものです。別に互いを罵倒して傷付けあうものではなく、議論やディベートでそれまでの個人の固定観念をぶっ壊すようなものです。でも、今の社会人生活ではそんな場はついぞ訪れません。何かについて話し合うにしても、特定のサービスや納期が可能か否かで議論するくらいです。

 サービスのレベルが人間の根幹にどんな影響を与えますか。納期が一体人生になんの影響をもたらしますか。そりゃ、それひとつでクビが飛んで露頭に迷う人があるかもしれませんが、それは別にその人の根幹ではなく、単に「社会人としての」その人が死んだにすぎません。人の根っこはそんなことでは変わりません。

 劫火を眼前に、それでも揺らぎなく立っているような、そういうものの話がしたいんです。こんなくだらないことを話さなくても平気な世界は、きっと平和なんでしょうが、私には少し味が薄いです。

 

ゲヘナより哀を込めて。